今の法華経の文字は皆生身の佛なり。
『法蓮鈔』建治元年4月。聖祖54歳(985頁)
法華経の文字は皆生身の佛
本年一月二十一日、身延山久遠寺の第九十二世法主であられた内野日総猊下が遷化されました。内野猊下は、創祖行道院日煌聖人から直に相伝を受けられた霊断師でもあられました。毎年の聖徒団の全国結集身延大会では、「御経頂戴」の儀をお勤め頂いておりました。謹んで猊下の増道損生をお祈り申し上げます。
「御経頂戴」の儀では、天台大師の作とされる頂経偈を唱えます。「稽首妙法蓮華経 薩達磨芬陀利伽 一帙八軸四七品 六萬九千三八四 一一文文是真佛 真佛説法利衆生 衆生皆已成佛道 故我頂礼法華経」。法華経はその一文字一文字すべてが佛様(一一文文是真佛)であり、この経で衆生は成佛するので、この経を頂礼します、という意味です。
標記の聖文でも、同じ趣旨のことが教示されています。
大聖人は、そして、上に続けて「我等は肉眼(にくげん)なれば文字と見る也。(中略)肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種種の色と見、佛種純熟せる人は佛と見奉る。」と仰っておられます。
経典の文字は、肉眼では、黒色の文字としか見えないけれども、佛の眼で見れば佛なのである、とお示しなのです。
「佛種純熟」というのは、佛に成る種が熟して佛眼を持った人というような意味合いの言葉で、これだけを読むと難しく感じてしまうかもしれません。けれども、私たちは誰もが第九識(佛性)を持っているのであり、純粋な法華経信仰に徹しさえすれば、私たちに内在する佛が活現し、佛眼を持つこともできます。
信心に徹した眼で法華経の文字を拝すれば、一文字一文字が生きた佛様の姿となり、御本佛の生命がそこに涌現していることを感じ取ることができるはずです。
古来から私たち日本人は、言葉を「言霊(言魂)」として捉えて来ました。言霊とは、言葉の持つ「不思議な霊力」のことです。私たちには、もともと、言葉に籠もっている神秘の力を感じ取る神眼、神耳が具わっているのです。
「禮拝文」に、私たちの「唱え奉る南無妙法蓮華経は…如来秘密神通之力の『言霊』なり」とあります。お題目こそは、言霊の中の言霊であり、わずか七文字の中に佛様の最高の力・功徳・神秘が全て備わっているのです。この神聖なる事実を受け取るのが私たちの信仰です。
『法蓮鈔』はさらにこう続きます。「法蓮法師は毎朝、口より金色(こんじき)の文字を出現す。此文字の数は五百十字也。一一の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり、(中略)いかなる処にも、過去聖霊のおはすらん処まで尋行給ひて、彼聖霊に語給らん。我をば誰とか思食(おぼしめ)す。我は是汝が子息法蓮が毎朝所誦法華経の自我偈の文字なり。」
法蓮法師が毎朝読経する自我偈は金色の文字となって顕れ出て、この一一の金色の文字が変じて太陽となり、釈迦如来となり、亡くなられた聖霊のおられる処まで尋ねて行って、語り掛ける、のです。
春のお彼岸も間近です。ご先祖様に手を合わせお題目をお唱えしましょう。