此御本尊も只信心の二字にをさまれり、以信得入とは是也。
『日女御前御返事』建治3年。聖祖56歳。(1293頁)
以信得入
法華経譬喩品第三には、次のように説かれています。
「汝、舎利弗すら、尚、この経においては、信を以て入ることを得たり(以信得入)。況んや余の声聞をや。その余の声聞も、佛の語を信ずるが故に、この経に随順す。己れの智分に非ざればなり」
舎利弗は、智慧第一と称せられた釈尊の十大弟子のひとりです。聖徒の皆さんでしたら、方便品第二に何度も名前が登場するので、お馴染みのことでしょう。あれは、「舎利弗よ」「なあ、舎利弗よ」と、お釈迦さまが呼び掛けられながら法を説かれているのです。
ここでは、その智慧第一の舎利弗ですら、智慧をもってしては法華経の門に入ることはできないと説かれています。佛語を信じ、随順することによってのみ、佛道が成就するのです。
表題の聖文は、この譬喩品の説示を踏まえて記されています。
「十界具足とは十界一界もかけず一界にある也。之に依って曼陀羅とは申す也。曼陀羅と云ふは天竺の名也、此には輪円具足とも功徳聚とも名くる也。此御本尊も只信心の二字にをさまれり、以信得入とは是也。日蓮が弟子檀那等『正直捨方便不受余経一偈』と無二に信ずる故に依って、此御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」
輪円具足(すべてのものがそなわって、欠けているものがない)であり、功徳聚(あらゆる功徳の集積)である大曼陀羅こそが御本尊である。そして、その御本尊は「信心」の二字に納まっている。これこそが「以信得入」である。と日蓮大聖人さまは仰います。
これは、法華経という真実最高の佛の教えの門は、智慧によって入ることはできず、信によってしか入門することができない、というだけの意味ではありません。
入門というと、入り口、初歩、というイメージを持たれるかもしれませんが、そうではないのです。
「御本尊の宝塔」に入るのですから、五字に対する信によって、私たち自らも輪円具足し、功徳聚となるのです。佛と成るのです。
佛陀とは、悟りを得た者、目覚めた者であり、智慧そのものです。
つまり、信によって道に入った時に、智慧と一体化するのです。智慧も信に納まっているのです。
信とは、神秘を素直に受け容れ、順う心です。信ありて真の智慧は得られるのであり、同時に、智慧の極致によって捉えられたものが信なのです。