我等は蓮華と芭蕉とのごとく、法華経の題目は日輪と雷とのごとし。
『法華経題目鈔』文永3年正月。聖祖45歳。(343頁)
蓮華と芭蕉
上聖文だけですと、何のことか解らなくても無理はありません。
「蓮華は日に随ってめぐる、はちすにこころなし。芭蕉樹は雷によりて増長す、此の樹に耳なし。我等は蓮華と芭蕉とのごとく、法華経の題目は日輪と雷とのごとし。」
私たちと法華経のお題目の関係を、日蓮大聖人さまは、蓮華と日輪、芭蕉と雷鳴に喩えておられるのですけれども、ここまで引いてもすぐにはピンと来ないかもしれません。
「日に随ってめぐる、はちすにこころなし。」「雷によりて増長す、此の樹に耳なし。」よくよく読むと、大聖人さまの仰りたいことが察せられて参ります。
筆者は植物に疎いのですが、「日に随ってめぐる」というのですから、きっと、蓮の花は向日葵のように、花が太陽の方向を向いて、その動きについて回ると考えられていたのでしょう。蓮に心はないけれども、お日様に随って花を咲かせる。まして、心ある私たちは。
芭蕉というのは、高さ五メートルに達する多年草です。辞書には「葉鞘は互いに抱いて直立。葉は長さ二メートル近くの長楕円形で、長柄を持ち、支脈に沿って裂けやすい。」云々とあります。日蓮大聖人さまの時代には、芭蕉は雷が鳴ると成長する、と言われていたのでしょうか。芭蕉には耳はないけれども、雷鳴を聞いて大きく生育する。まして、耳を持つ私たちは。
蓮の花には心はなくとも、太陽の光にしたがって回り開花する。芭蕉は耳があるわけではないけれども、雷鳴を受けて生育してゆく。私たちと法華経のお題目との関係は、蓮華と太陽、芭蕉と雷鳴のようなものである。心のない蓮華、耳のない芭蕉ですらそうなのだから、心もあり耳もある私たちは、お題目という太陽や雷鳴によって、成熟し、佛に成るのである。
お題目に随って、それを中心として生活し、唱題して、その声を聞いて、成長する。自分の唱題が自分を成長させる、というだけではなく、自分の唱題の声が他者をそだて、周囲の唱題の音が自身をはぐくむ、というような意味合いにもなりそうです。
もっとも、私たちが雷のようであり過ぎると、ちょっと迷惑になってしまうといけませんので、「蓮華と芭蕉とのごとく」を基本で参りましょう。