南無妙法蓮華経は一心の方便なり。妙法蓮華経は九識なり、方便は八識已下なり。心を留めて之を案ずべし。
『御義口伝』「方便品八箇の大事」第一(一三九六頁)
妙法蓮華経は九識なり
『御義口伝』は、六老僧の日興聖人が筆記したとされる日蓮大聖人の身延山での法華経講義録です。詳しくは『就註法華経御義口伝』と言い、『日興記』と略称されます。同様の書に『御講聞書』(『日向記』)があり、共に現存する最古の写本が戦国期にまで下がることなどから、大聖人のものではないとする説もありますけれども、もし身延で大聖人が法華経の講義をされなかった、とか、お弟子達の誰もその記録を残さなかった、書き留めたノートが伝存しなかった、というようなことがあったのだとしたら、なんと残念なことでしょうか。
さて、南無妙法蓮華経は方便である、などと聞くと、少し驚かれるかもしれません。お題目は真実そのものの筈ですから。
方便と言うと、「嘘も方便」という慣用句から、便宜的な手段という意味に思われ勝ちですが、妙妙たる方法、巧みな手立てという意味であり、佛が衆生を導くための方法、成佛する手立てのことです。
『御義口伝』には、天台大師の『法華文句』の「方とは秘なり、便とは妙なり。妙に方に達するは即ち是れ真の秘なり」との釈が引かれています(因みに『法華文句』は天台大師の講説を、灌頂が筆録したものとされる法華経の註釈書です)。これを受けて、大聖人は「今日蓮等の類ひ、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは、是れ秘妙方便にして体内なり」と仰います。「体内」とは、真実の体の内という意味です。
南無妙法蓮華経が成佛する秘妙の方法であるのは、御本佛に南無することであるからです。南無とは帰命することであり、信ずること、受持することです。
妙法蓮華経は、申すまでもなく法華経の具名ですが、「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯だ一部の意のみ」(『四信五品鈔』)であり、「妙法蓮華経こそ本佛にてはおはし候へ」(『諸法実相鈔』)であり、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」(『観心本尊鈔』)ですので、御本佛そのものであり、その御心であり、その御本体なのです。
そして、その妙法蓮華経は私たちの第九識なのです。
九識とは、私たちの心を考究し、九つの段階に分けた最深奥部のことです。妙法蓮華経は九識である、つまり、私たちの究竟の心を妙法蓮華経と名づける、というのです。私たちの心こそが、御本佛の実体なのです。換言すれば、私たちの真の心は、もともと、御本佛の心であるということです。
御本佛の心を私たちの心として生きることこそ、御本佛に帰命すること、南無妙法蓮華経に他なりません。