願くは我を損する国主等をば最初に之を導かん。
『顕佛未来記』文永10年閏5月。聖祖52歳。(七七〇頁)
国主を導く
「我を扶くる弟子等をば釋尊に之を申さん。我を生める父母等には、未だ死せざる已然に此の大善を進めん。」と続きます。
日蓮大聖人は、文永八年(1271)の龍口の法難から佐渡への配流の後、同九年二月に『開目鈔』を著わされて本化上行の自覚をお示しになり(人開顕)、さらに翌十年二月『法華宗内証仏法血脈』にて塔中別付血脈相承の系譜を明らかにされ、同四月には『観心本尊鈔』を撰述されて、本門の本尊の全容とともに、五字の妙法を顕示されました(法開顕)。
その二ヶ月後に撰述されたのが本書です。三国四師の外相承を示され、御自身を法華弘通史上の正統的系譜に位置づけられて、末法における法華経流布の担い手としての「師」自覚を表明されました。
そして、正嘉・文永の地震等が、まさしく本法広布・本化地涌出現の瑞相に外ならないことを論じられた上で、右の大願を述べておられます。
日蓮大聖人の願というと、『開目鈔』の三大誓願「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」が知られています。個人のレベルのみではなく、社会・国家での信仰の在り方を問われたことは、大聖人の宗教の大きな特色の一つであり、柱・眼目・大船である日本の師として、かくなさんと示されたのが、表題の願でありましょう。
ご覧の通り、①国主、②弟子、③親に対する、日蓮大聖人の導師としての大願が説かれているのですけれども、②弟子、③親への願は当然のこととして、①国主に対しては、なぜご自身の法華経流布を迫害する国主を最初に導こうとされるのか、という疑問を持たれる向きもあるかもしれません。
もちろん、国家全体を変革せんとするならば、先ず国主を教導しなければならないからではあるのですが、それだけではありません。
『四恩鈔』に、「此讒言(ざんげん)の人、國主こそ我身には恩深き人にはをわしまし候らめ」(私を迫害する国主こそ私にとって恩深き人である)というお言葉があります。日蓮大聖人を迫害した国主がいたからこそ、大聖人は法華経の行者としての自覚を持たれたのであり、その意味で恩人である、と仰るのです。
権力を持ち、自身に敵対する者を、恩人と見なし、先ず導かんとする。大聖人のこの誓願を、未来に生きる私たちへの激励として受け止めたいものです。