受るはやすく、持はかたし。さる間、成佛は持にあり。
『四条金吾殿御返事(此経難持)』文永十二年三月。聖祖五十四歳(八八一頁)
受持
聖徒の皆さんなら、日頃から「受持」についてお聞きになっておられることと思います。法華経法師品の五種法師の行、受持、読、誦、解説、書写のことなども、おそらくご存じのことでしょう。
五種法師の五つの行は、受持が総行であり、それ以外が別行です。すなわち、受持の行の具体的な形が、読、誦、解説、書写の各行であり、換言すれば、読、誦、解説、書写の諸行は、受持の行に収斂するのです。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」と『観心本尊鈔』にあります。
私たちが妙法蓮華経の五字を受持すれば、自然にその功徳を譲り与えて頂ける、すなわち成佛する、という意味です。
受持とは、受け、持つことです。どうして、受けるのは容易であり、持つのは困難である、と大聖人は仰るのでしょうか。妙法五字を受ける、妙法五字を持つ、と考えると、分かりにくいかも知れませんから、妙法五字を、釈尊の教え、と置き換えてみましょう。
釈尊の教えを受ける。釈尊の教えを持つ。学校で先生の話を聞くことをイメージしてみると解りやすいかもしれません。先生の話を聞くことは、その場に居さえすれば、誰にでも出来ます。しかし、先生に教えられた通りにし続けることはどうでしょうか。まず、先生の話を忘れないでいなければなりません。そして、教えられた通りを実行しなくてはいけません。どんな教えであれ、これは誰にでも出来ることではなさそうです。受けることと、持つことを比べると、持つことが遙かに難しい、ということは理解いただけるのではないでしょうか。
実は、法華経の教えを受けることは、法華経の教えを持つことに比べれば容易ですが、それは、あくまで比較してのことであり、本当は、法華経の教えを受けることも簡単ではありません。
「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも値遇たてまつること難し」と「開経偈」にありますように、法華経に出遭うこと自体、受け難き人身を受けた上で、値い難き妙法に値遇できたということなのです。
そして、その法華経の教えのままに生きて行くこと。これはとても難しいことです。「此経難持(此の経は持ち難し)」。
ですから、持つかどうかが佛に成れるかどうかの極め手となるのです。だから、私たちは「南無妙法蓮華経の道を持ち奉らん」と誓うのです。
そして、ここだけのお話をすれば、南無妙法蓮華経の道を持つことは、難しくありません。お題目を信じて唱える。それだけで良いのです。