されば重て経文を勘て我身にあてゝ身の失をしるべし。
『開目鈔』文永9年2月。聖祖51歳(55頁)
経文を勘て我身にあてる
先月に続き、『開目鈔』の一節を御紹介します。
『開目鈔』が「人開顕」の書と呼ばれる所以は、日蓮大聖人さまという方がどんな人であるのかということ、すなわち、「閻浮第一の法華経の行者」であり、末法の唱導師たる本化地涌の菩薩であることを説き示された、ということです。
門下の人びとの「法華経を信じていれば御守護があって然るべきなのに、何故、難に遭うのか」という疑問は、日蓮大聖人さまご自身が問わねばならないことでもあられたのです。
大聖人さまは、「私は法華経の行者ではないのか?」と問われました。
「法華経の二処三会の座にましましゝ日月等の諸天は、法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく、須臾に来て行者に代り、佛前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候に、いままで日蓮をとぶらひ(訪)給わぬは、日蓮法華経の行者にあらざるか。されば重て経文を勘て我身にあてゝ身の失をしるべし。」
法華経の、霊鷲山と虚空会、そしてまた霊鷲山に戻っての説法の座におられた日天・月天などの諸天善神は、法華経の行者が出現したならば、あたかも磁石が鉄を吸いつけるように、月影が水面に映るように、たちまちに訪れて法華経の行者の苦難を代わって受けとめるという、仏前での誓いを果たすはずであると思われるのに、今までに日蓮のもとを訪れて守護しないのは、日蓮が法華経の行者ではないのであろうか。それゆえ、再び経文を勘考し、我が身に照らし合わせて、私自身に過失があるかどうか考えてみよう。
人は、思い通りにならない時、その理由を他者や環境に求めがちであり、自分に非があるのではないか、とはなかなか考えられないものです。自分が失敗したのは○○さんの所為だ、うまく行かないのは世の中が間違っているのだ…。
大聖人さまは、先ず、自身に失があるのではないか、守護して頂けないのは自分の所為なのではないか、と考え直してごらんになったのです。法華経の行者を守ってくださる筈の諸天善神が護ってくださらなかった。私は法華経の行者ではないのだろうか。私に過ちや罪があるのではないか。そして、「重ねて経文を勘」えられました。つまり、経文を基準として、そこに説き示された仏さまのお考えを尋ね、自分の行いが仏意に適っていたのかどうかを問い直されたのでした。
自分の物差しではなく、仏さまの尺度を基準とするのが、菩薩の生き方です。