人に物をほどこせば我身のたすけとなる。譬へば、人のために火をともせば、我が前あきらかなるがごとし。
『食物三徳御書』弘安元年。聖祖57歳
ほどこせば我身のたすけ
「情けは人のためならず」と言います。もちろん、「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、善い報いとなって自分にもどってくる」という意味ですが、近年は「親切にするのはその人のためにならない」という趣旨だと誤解している人が多いのだとか。言葉は変わるものであるのは世の常ですが、こうなってしまうと困ったものです。
春のお彼岸が近づいて来ました。お彼岸と言えば、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜(六度)の修行についてお聞きになったことがあることでしょう。波羅蜜とは、梵語パーラミターの訳語で、原義は完成・熟達という意味です。佛に成ることを目指す菩薩の修行であり、現実界の此岸から理想界の彼岸に到達すると解釈して、到彼岸・度彼岸などとも訳されます。「禮拝文」の「三規六則」の六則は六波羅蜜のことです。
六波羅蜜は、布施…智慧と、だんだん深い修行となる、というのが、佛教一般での理解です。布施から始まって、智慧が完成して覚りに至り、佛と成る、のです。
しかし、本当にそれで良いのでしょうか。
大小乗を通じて、佛教の修行の基本は、〔持〕戒・〔禅〕定・〔智〕慧の三学です。大乗佛教の菩薩の修行として、それに布施、忍辱、精進が加えられ、六波羅蜜となりました。
大乗菩薩の肝心は、利他ということです。もちろん、釈尊の時代から、自利も利他も大切だったのですが、智慧、覚りの宗教である佛教では、どうしても覚者(佛陀)となるための自利の修行が優先されてしまいました。
それを切り替えたのが、自覚覚他覚行円満を目指した大乗佛教菩薩道でした。
自利とともに、あるいはそれ以上に、利他を考えるのが大乗です。では、六波羅蜜の中の利他行とは。言うまでもありません、布施です。
実は、六波羅蜜の中で、肝心要なのは、布施行なのです。
財施、法施、身施、無畏施等、いろいろな布施があるのですが、今は措きます。
「人に物をほどこせば我が身のたすけとなる」。先ずは解りやすい、財施から始めましょう。利他行は、そのまま自利行となると、日蓮大聖人はお示しです。
聖徒団では、「十字聖日」を勧奨しています。月に一日で可いので、その日は、腹を立てないようにし、人に物をほどこすこと。
毎日六波羅蜜を行ずるのが理想なのですが、いきなり理想に到達するのは無理なので、トレーニングをするのです。月に一日、聖者の入り口に立って、聖者の真似事をするのです。真似事であろうと、菩薩の一分の実践です。聖者の気分を味わえます。その味を知ったら、辞められなくなります。
その妙味を知る者を「聖徒」と呼ぶのです。