米は油の如く、命は燈の如し。法華経は燈の如く、行者は油の如し。
『曽谷殿御返事』弘安二年八月。聖祖五十八歳(九九三頁)
行者は油の如し。
弘安二年(一二七九)八月十七日、曽谷道崇から、亡父教信入道の供養のためにと、二俵の焼き米が日蓮大聖人さまのもとに届けられました。そのお供えへの禮言に添えられた御教示です。
油が燃えて、燈が点ります。油が盡きてしまえば、燈は消えてしまいます。
命という燈をたもつことができるのは、米(食物)という油があるからです。食物なくして、命を長らえることはできません。
「米は少しと思食候へども人の寿命を継ぐ物にて候。命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候と佛は説かせ給へり。米は命を継ぐもの也」。
米はたとえ少量であっても、人の寿命をつなぐものである。命というものは、如何なる世界にあっても、買い求めることのできない、何よりの宝であると、佛さまは説かれていらっしゃる。米は、その尊い命をつなぐものなのである。
大聖人さまは、そのように仰ってから、譬えば、と上聖文のことばを続けられておられます。
米(食糧)と命の関係を、油と燈の関係に喩えるのに比べると、「法華経は燈の如く、行者は油の如し」の方は、少し解りにくいかもしれません。
法華経を燈とし、行者をそれに照らされる者、それを拠り所とする者、それを仰ぐ者、それに導かれる者、とだけするのであれば、解りやすいのですが、大聖人さまはそうは仰らないのです。
それだけにとどまらず、その法華経の燈を繋ぐ油は、行者、すなわち私たちなのである、と。
これは、法華経の教えを弘めるのは行者たる私たちである、というだけの意味ではありません。
私たちがいなくなってしまったら、法華経はただの経巻であり書物になってしまいます。法華経が法華経として燈となるのは、法華経を信じ、法華経を受持し、法華経を読誦するわたしたちがいるからこそなのです。
もちろん、私たちは、法華経を燈とし、拠り所とします。しかし、その法華経に命を与えるのが、私たち自身であることを自覚し、法華経という燈を絶やさないようすることこそ、私たちの役割であることに気付かなければなりません。
「米は命を継ぐもの也」の、「米」を「行者」に、「命」を「法華経」に置き換えてみましょう。
行者は法華経を継ぐもの也。
これこそが大聖人さまの教えであると申せましょう。