魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多くさけども菓になるは少なし。
『松野殿御返事』建治二年。聖祖五十五歳(一〇九二頁)
魚の子は多けれども
魚類は、一度に万の単位で産卵します。例えば、ニシンは三~十万だそうです。数の子の腹子には、そんなにも多くの卵が詰まっているわけです。
北海道では、ニシンの資源増大対策に取り組み、種苗放流を行っているそうですが、毎年二百万尾以上の稚魚を放流しても、放流稚魚の一歳時生存率は高くて数%しかなく、一%に満たない年もしばしばあるのだとか。
ニシンの卵は、直径約一・五㎜、重さ約一㎎、孵化した仔魚は全長七㎜ほど、白くて細長く、親とは似つかない姿をしています。その後、成長とともに姿を変えてゆき、四十日ほどで全長三十~三十五㎜となり、鰭条(きじょう。ヒレを支える筋状の部分)の数などが成魚と同数になって、仔魚から稚魚となります。孵化後二ヶ月で全長四十~四十五㎜になると鱗も生えそろい、外観がニシンらしくなり、擦れや衝撃にも強くなってきて、他の稚魚と群れを形成し始めます。このように、仔魚~稚魚期は非常に弱々しいため、孵化後三ヶ月ほどを過ぎ、全長六~七㎝まで成長してから放流するのだそうですが、それにも関わらず、生後一年、全長十五㎝まで成長できるものは上記の通りだそうなのですから、如何に「魚の子は多けれども魚となるは少な」いかが拝察されます。
「人もまた此の如し。菩提心を発す人は多けれども退せずして実の道に入る者は少なし。都て凡夫の菩提心は多く、悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物也。」
人もまたそうである。佛になろうとする心を持つ人は多いけれども、退転しないで真実の佛道に入る人は少ない。およそ私たち凡夫の菩提心は、悪い縁に誑かされて、何かことがあると心変わりしてしまうことが多いものである。
日蓮大聖人さまのお嘆きが伝わって来ます。
私たちは菩提心を何故たもち続けることが出来ないのでしょうか。それは、悪縁にたぼらかされるからである、というのが、大聖人さまの御指南です。
私たちの心には、佛の心もあるのですが、地獄や餓鬼の心もあるのです。ですから、せっかく信心を発しても、ややもすれば悪縁にたぼらかされてしまいます。
佛教は縁起の教えです。縁によりて起こる。縁がなければ起こらない。私たちの心の、畜生や修羅の心も、無くすことは出来ませんが、それが活発に動き出してしまう縁を作らないようにすれば良いのです。そして、菩提心をたもつような良縁を作り出して行けばよいのです。
どうしたら、そう出来るのでしょうか。
先ず、お題目を唱えること。そして、その信の輪を広げて行くことです。
周囲がお題目を唱える人ばかりになれば、悪縁をもたらす人はいなくなります。もし悪縁を持たざるを得なくなったとしても、周囲のお題目を唱える人が、誑かされるのを止めてくれます。
総和こそ、成佛であり、成佛への道なのです。