佛性の蓮華は(中略)善悪不二の花なれば悪業の厚薄をも不撰、邪正一如の華なれば煩悩の淤泥にも生長す。
『当体蓮華鈔』弘安3年。聖祖59歳
善悪不二の花・邪正一如
善悪や正邪は、社会組織と共に成立する相対的な価値観念です。つまり、社会的な組織が成立すると、その上に善や正が生まれ、社会に順応せざるものを悪とし、邪とするのです。
ですから、個人が個人の力だけで生活の出来る環境においては、相対価値の判断も不必要になり、善悪も正邪もありません。
例えば、ロビンソン・クルーソーのように、絶海の孤島に漂着して、唯一人で原始生活を始めるとすれば、その行為には善も悪もありません。
他を利する為の相手もなく他を害する為の相手もないとすれば、倫理も道徳もなくなってしまう筈のものだからです。
しかしながら、人類はそういう完全単独の生活は出来ないように、生理的にも心理的にも造られています。
仮にあなたが人類最後のひとりになってしまったとして、それでも己れひとりで生き延びることが出来たとしても、その命が盡きる時は、個体としての生命の終焉であるとともに、種としての人類の生命の完結になってしまいます。
子孫を残し、全体生命を継続させることこそが、生命の目的であり、社会生活は人間の生理と心理の中にもともと仕組まれてあるものなのです。
ひとたび社会組織が成立し、相互の協力と分業に依って、個々の生活が成立するようになると、社会の運営を安全にし、その内容を充実することが、個々の生活を安全にし且つ充実することに一致しなければならないことになります。ここに、社会に対する順応性が要請され、倫理と道徳が登場し、「善悪」「邪正」が生まれるのです。
とは言え、どのように社会組織が大きくなり、複雑になろうとも、それは個人の必要から生れたものであって、個人を不幸にする社会には、社会としての意義はあり得ません。同時に個人は自己の保全と、社会の安定とを兼ねる人格を、後天的に成立させる義務を負うことになります。
第九識である佛性は清浄無垢であり、不偏で中正なものですが、第七識(本能)に傾けば邪悪を現じ、第八識(理性)に傾けば正善を悟ります。では第七識を無くしてしまえば良いのかと言えば、それでは生命活動は停止してしまいます。
かくして、個々の生命体の運営に是非必要とする本能を、どのように取扱うことが個人格と社会人格を一致させる所以であるかに、人間の生活理想(人生の究竟目的)の焦点が絞られて来ることになります。
個人格と社会人格との一致点にこそ、人生の究竟目的が発見されるのです。