佛眼をかん(借)て時機をかんが(考)へよ。佛日を用て国をてら(照)せ。
『撰時鈔』建治元年。聖祖五十四歳。(一〇三頁)
仏眼と仏日
仏教は、智慧と慈悲の宗教です。
仏典に、梵天勧請と呼ばれるエピソードが伝えられています。仏陀釈尊は、菩提樹の下で覚りをひらかれた後、しばしその境地を味わわれながら、こうお考えになりました。自分が覚った法(教え・真実)は、極めて深遠で難解であるから、世間の人びとにこれを説いても、理解しては貰えないだろう。だとしたら、説法をしても無駄だ。いっそのことこのまま涅槃に入ってしまおうか。その時、梵天という神様が、衆生のために法を説くことを勧め請い、釈尊はこの梵天の勧請を聞き入れられて、法を説くことを決意された、というのです。
釈尊の逡巡が事実であったのかどうかは分かりません。肝心なのは、智慧と慈悲とが一つになって始めて仏教が仏教となる、ということです(言い換えれば、仏教の智慧は慈悲と一体の智慧であり、仏智は大慈大悲と相俟ってこそ仏智となるのです。恐らく)。
梵天の勧請を受けた釈尊は、「仏眼」を以て世間のありさまを観察されて、説法する心を定められたと伝えられます。「時機をかんが」えられたのでしょう。そして、「佛日を用て」世間を照らすことを決心されたのでありましょう。
新型コロナウイルス感染症という令和の疾疫の難が起こり、世界中の人びとが苦しんでいます。我が国でも、四月七日、緊急事態宣言が発せられました。
感染症の被害を減らすための規制や対策は必須ですが、これによって、人間の営為が停滞を余儀なくされ、経済活動が沈滞化します。この経済的な打撃が生み出す苦しみは、感染症が直接に齎す厄災より大きなものになるとも予想されています。疫病の直接間接の犠牲を最小にするためには、仏眼と仏日が必要です。
私たちがどのように行動するかによって、生命が失われたり、人としての営みが損なわれたりします。それは自身の生命であり他者の生命であり、自身の営みであり他者の営みです。この疾疫の難による喪失をどうしたら減らせるか。私たち自身が仏眼を持たねばなりません。では、凡夫である私たちが、どうしたら仏日を用て国を照らせるでしょうか。
慈悲とは、苦を抜き楽を与えることであり、他者に共感する力です。異体同心はここから生まれます。総和の基となるものです。
南無妙法蓮華経の総和が、凡夫である私たちに、仏眼と仏日を与えてくれます。「私たち」こそ仏であるという仏眼を以て、祈り、覚り、行うのです。
人と人、地域と地域、国と国とが、物理的には距離を取りながら、心を一つするという難事が須要とされています。
大難を乗り越えた先に大いなる妙法が花開くのが、真の日蓮仏教です。