総じては如来とは一切衆生なり。別しては日蓮の弟子檀那なり。されば無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。
『御義口伝』「寿量品廿七箇の大事」第一
全:p1433
如来とは一切衆生なり。
如来とは仏さまのことです。仏さまとは何でしょうか。釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来…。皆さんも、たくさんの仏さまを御存じのことでしょう。
しかし、そうではないのだと、日蓮大聖人さまは仰います。一切衆生、つまり生きとし生けるものの総てのことを、如来と言うのである、と。特に、日蓮門下、南無妙法蓮華経を唱えるものこそが仏である、と。
私たちは御本仏を拝みます。法華経の本門の寿量御本仏です。全ての仏さまを統一する仏さまのことです。でも、それだけではありません。一切衆生の本体である仏さま、私たちのいのちの根元となる仏さまが、寿量御本仏です。
一切衆生の本体が御本仏ですから、御本仏は私たちの中におられます。眼には見えません。姿形無くおわします。無相密在です。
一切衆生の本体が御本仏ですから、御本仏は私たちとして現れています。眼に見えます。姿形を有って存在しています。有相顕在です。
無相密在する御本仏は、私たちの本体である仏さまですから、大日如来とか、阿弥陀如来とかの、個の仏さまではありません。誤解を恐れずに申し上げれば、釈迦如来でもないのです。
御本仏が有相顕在する時には、私たちの全体となって出現します。私たちの肉体を借りて、御本仏がいのちを現すのです。
御本仏のいのちを現すとは、仏としての働きを表すことです。仏としての働きとは和することです。
和は、個のままでは出て来ません。他があり、他と和することで、初めて和となります。日蓮大聖人さまは、夫婦和合の姿は南無妙法蓮華経そのものであると仰っておられますが、それはそういう意味なのです。
日蓮宗聖徒団では「総和」ということばを用います。「総和の人格」「総和の大理想」。夫婦が和し、家族が和し、一族が和し、共同体が和し、…総ての人が和合体となった時に、寿量御本仏の真の全貌が現れるのです。
一滴の水はほとんど無力ですが、器を満たせば乾きを癒やし、川となり大海となれば、いのちを生み出し、永遠に消えません。私たちは、一個の人間としては、無力で、無常ですが、総和すれば、本体である寿量御本仏の大生命の一部となり、偉大で、常住不滅となるのです。
その「総和」の大理想への一歩を表すのが、全国結集身延大会です。「日蓮の弟子檀那」たる我等、いざ身延に集わん。