されば法は必ず国をかんがみて弘べし。彼国によかりし法なれば必ず此国にもよかるべしとは思べからず。
『南條兵衛七郎殿御書』
文永元年12月。聖祖43歳。全:p1007 定:1巻p324
此国によき法
「対機説法」ということばをご存じのことと思います。相手、つまり話を聞く側の機根(素質・能力)に応じて、理解しやすいように、聞き入れやすいように、法(教え・道理)を説くことです。
感情豊かな人には、その感性に訴えるように教えを説き、論理的思考をする人には、その理性が納得するような仕方で法を示す、というようなことになるでしょうか。動物や植物が好きな人には、動植物を例にひき、縁起を担ぐ人には、曰く因縁・故事来歴を伝えながら、というように、相手に合わせながら教えを示し、受け容れやすい教えを説くのです。
ここまでは、教え導く対象が個人の際のことですが、相手が国の場合でも同様であることを示されているのが、上の聖文です。国にはそれぞれの国柄がある。その国柄に応じて教えを弘めなければならない、と仰るのです。
『教機時国鈔』には、「佛教は必ず国に依りてこれを弘むべし。国には寒国、熱国、貧国、富国、中国、辺国、大国、小国、一向偸盗国、一向殺生国、一向不孝国等これあり。また一向小乗の国、一向大乗の国、大小兼学の国もこれあり。しかるに日本国は一向に小乗の国か、一向に大乗の国か、大小兼学の国か、よくよくこれを勘ふべし。」(二九六頁)とあります。
その国の気候、経済力、地理的条件、国民性等々を考慮して教えを弘めるのです。「一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国」という表現も、考えさせられます。
ただし、これらは、無原則に、あの人にはああ言う、この人にはこう言う、その国にはそう言って、かの国にはかく言う、それぞれが矛盾していても構わない、というのではありません。自分に甘く他人に厳しい人には「他者に優しく」と説き、自分に厳しく他者に寛容過ぎる人には「他者にも厳しく」と教えるとします。表面だけを見れば反対の教えのようですけれども、いずれも根柢は慈悲なのであり、その表現の仕方の問題であることを知らなければなりません。
そして大切なのは、順序次第です。「必ず先に弘まる法を知りて、後の法を弘むべし。」(『教機時国鈔』二九六頁)。高等数学を学んでいる人に足し算・引き算を教えても無意味です。実は、上祖文は過程の教えであり、どの国にも最終的には最高の教えが弘まらなければなりません。
最高の教えとは、無論、法華経お題目の教えです。
法華経の本縁国土であり、一向大乗、円機純熟の国である日本で、法華経以外の法が弘められるべきではない、というのが、聖意です。