或は天に生れて大梵天・帝釈の身と成て、いみじき事と思ひ、或時は人に生れて、諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて、是程の楽しみなしと思ひ、少しきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を佛は夢の中の栄、まぼろしの楽しみなり。唯法華経を持ち奉りて、速に佛になるべしと説き給へり。
『主師親御書』
建長7年。聖祖34歳。全:p176 定:1巻p45
夢の中の栄
総本山身延山久遠寺では新たに「共栄運動」が始まったそうです。共に栄える。何よりのことですね。では、栄えるとはいかなることなのでしょうか。
天に生まれて梵天や帝釈天となって素晴らしいことだと思ったり、人として生まれて国王や大臣や公卿や殿上人になって、これほどの楽しみはないと思っても、それは少しのことで満足して、悦んでいるに過ぎない。そんなことは夢の中の栄であって、幻の楽しみである。法華経を受持して、仏になることこそ、本当の栄であるというのがご本仏の教えである。
祖文の大意は、右の通りです。国王、大臣になることどころか、梵天・帝釈天という神さまになることすら、少しを得て足りると思う悦びに過ぎないのであり、取るに足りない、と仰っておられるのに、驚いてしまいますね。
小さなことで満足するな、本当の栄を手にせよ。問題は、南無妙法蓮華経の道を持ち、行い、護り、弘める、四誓願を生きるのかどうか。そして仏になるかどうか。それ以外のことは些事に過ぎない。そう大聖人は仰っておられるわけです。
人間は、常に、常楽我浄の四徳波羅蜜、すなわち、死なない生命、安楽な生活、自主自由、清浄で安穏な世界、を求めています。四徳波羅蜜は人生の究竟目的であり、四徳波羅蜜の成就を幸福と言う、と、これは、日頃、団長上人からお聞きになっているところでしょう。
では、四徳波羅蜜を求めることは、「夢の中の栄」にはならないのでしょうか。
ここで大切なのが、総和という聖徒団の理想です。四徳波羅蜜は、単独の個の生命で具現するものではありません。全体生命に於いて、換言すれば、異体同心することによって、初めて具現するものです。その同心とは、四誓願に他なりません。
四誓願を生きることによって四徳波羅蜜が顕現するのです。
もう一つ。四徳波羅蜜とはご本仏の徳そのものです。四徳波羅蜜を求めるとは、本仏の一分となることを願うことなのです。
もうおわかりですね。四誓願を生きて、四徳波羅蜜を成就する。異体同心して総和の大理想を具現する。それが成仏であり、本当の「栄」なのです。