夫れ摂受・折伏と申す法門は水火の如し。火は水をいたう(厭)、水は火をにくむ(悪)。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。
『開目鈔』
文永9年2月。聖祖51歳。全:p70 定:1巻p606
摂受・折伏
少し難しくなりますが、もう少々聖文を続けます。
「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。譬へば熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむ(好)がごとし。(中略)末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国、破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。」
摂受・折伏ということばはお聞きになったことがあるかと思います。あるいは、摂受は初耳でも、折伏の方はお聞き覚えがありましょう。
仏教では相手を正しい道へ導く方法として、古来から摂受・折伏の二つが示されてきました。摂受とは、相手の考え方を直截に批判したりはせず、漸進的に正法の世界に摂入する穏やかで寛容的な教化法のこと。折伏とは、相手の見解に誤りがあった場合に、それを徹底的に破折して正義に帰伏せしめる厳格な導き方を言うとされます。
日蓮大聖人さまが、折伏を自らの方法として選択されたことも、よく知られているところでありましょう。
日蓮大聖人さまは、教・機・時・国・序(教法流布の先後)の五綱教判を立てられ、総合的に法華最第一を掲げられたのですけれども、そのうち、特に時と機の観点から、折伏を選ばれたのでありました。
ところで、この聖文を読まれれば、日蓮大聖人さまが、折伏一辺倒の方でなかったことにお気付きになられることでしょう。むしろ、摂受・折伏の使い分けを指南されておられますね。
摂受を選択した人と折伏を良しとする人との間の相互理解の難しさ、他者と立場が異なる場合に自己の見解に固執してしまうことを、警告されています。
実は、日蓮大聖人さまは、折伏だけとするのは時限的なものであるとお考えでした。専ら折伏を用いるのは、末法の最初という時代を熟思されたからであり、永遠に折伏のみとお考えになったのではなかったのです。
しかし、日蓮門下は、折伏こそが万代不易の方軌であると思い違いをして来てしまいました。その結果、近世初期には門下七万ヶ寺にまで達したとされながら(現在、仏教全宗派の全寺院を合わせても八万ヶ寺に過ぎません)、国家権力からの弾圧を招き、教勢の衰退に至りました。
戦後、「折伏大行進」などという心得違いをして、日蓮大聖人さまに対する悪イメージを振りまいた教団のあることも、周知の通りです。
聖徒の皆さんは、どうぞ穏やかに、未信の方を導いてください。先ずは倶生霊神符を贈進されることをお奨めします。