されば境と云ふは万法の体を云ひ、智と云ふは自体顕照の姿を云ふ也。而るに境の淵ほとり(辺)なくふかき時は、智慧の水ながるる事つゝがなし。此の境・智、合しぬれば即身成佛する也。
『曽谷殿御返事(成佛用心鈔)』
建治2年8月。祖寿55歳。全:p989 定:2巻p1253
観念と現実の一致(境智冥合)
境とは客観世界のこと、智とはその客観世界を認識する主観のことを言います。要するに、境は現実、智は観念のことです。この境と智とが合すれば、つまり、現実と観念とが一致すれば、即身成仏する、と大聖人さまは仰っているわけです。
「境智冥合即身成仏」。「礼拝文」にありますね。
客観世界である現実があり、その現実に対して私たちは様々な観念を生じさせます。観念は、時として現実を離れてしまい、心の中だけの世界を作ってしまうことがありますが、それは空想であって、本当の智慧にはなりません。観念的に成立したものを、また翻って現実に一致せしめることが必要です。
この「観念と現実の一致」こそ、日蓮大聖人さまの教えの原理なのです。
仏陀観(仏陀とは何か)、成仏観(仏に成るとはどういうことか)、浄土観(浄土とは如何なるものか)等々、仏教において成立したいろいろな教え(観念)がありますが、その観念が観念のままであったのでは、本当の価値はありません。その観念を、現実の世界と人間の生活に当て嵌めるとどうなるのか。観念と現実が一致せず、食い違っているとすれば、如何に立派な仏陀観、成仏観であろうと、まさに観念遊戯でしかありません。
米を煮炊きして食べる方法を知ってさえいれば、米とは被子植物単子葉類イネ科イネ属に分類される稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物であり…というようなことを知らずとも、一般には事足ります。逆に、米とは何ぞやということをいくら知っていても、それをご飯にして食べなければ、空腹は満たされませんし、栄養にもなりません。
仏陀とは何か、どうすれば成仏できるのか、ということについて、説明(観念)はきちんとしたものでなければなりませんけれども、どこまで行ってもそれは説明であって事実(現実)ではありません。仏陀の救いは、私たちが現実に成仏することであり、理論(のみ)ではないのです。日蓮大聖人さまは、天台の一念三千の成仏観を昇華し、智解にとどめず、実益とする道を拓かれました。学問で到達された真理を宗教の信仰に移し、仏に成った功徳を現実に受け取れるようにされたのです。
観念と現実を一致させて、即身成仏してください。お題目を真摯に唱え、本門寿量仏さまの大曼陀羅ご本尊を至心に礼拝することです。南無妙法蓮華経の道を持ち、行い、護り、弘めるのです。倶生霊神符を道づれに。