まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩悩即菩提、生死即涅槃と云なり。生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり。
『四条金吾殿御返事(煩悩即菩提)』
文永9年5月。祖寿51歳。全:p867 定:1巻p635
煩悩即菩提、生死即涅槃
全国的に著名な寺院の貫主が女性問題で解任されたり辞任したりという事件が続きました。性欲は、釈尊の時代から大きな問題となって来たところです。
男女の交会は、性欲という本能に促されて為されます。社会倫理上、性欲の発動は結婚という条件に従うことを要請されていますけれども、本能と倫理とは、因って来るものが同一ではありませんので、性行為は必ずしも結婚によって行われるとは限りません。現に、世間には不倫の性行為も夥しく発生しているわけです。
倫理は、人間相互の平安、社会の康寧を目的として成立しているものですから、不倫の性行為は男女間の安寧を破ることになります。争いとなり、時に残忍な行為にまで発展してしまうこともあります。そうした苦悩を発生させ、自ら憂悶することが「煩悩」に他なりません。
結婚というもの自体、性欲という本能を大本にしている制度ですので、絶対の安定を約束するものではありません。本質的な危険の上に、倫理という紙一枚を挟んでいるだけのものです。本能が穏やかに発動されるように工夫された人為的な装置に過ぎません。ですから、仏教では、婚姻という条件の有無に拘わらず、性欲そのものを煩悩として捉えて来ました。
しかし、性行為は、本人の自覚するとせざるとに拘わらず、妊娠受胎を目的として行われる天与の使命です。これによって新しい生命が姿を現すのであり、親から子、子から孫へと、鎖の輪が続いて行くように、久遠の生命が存続されて行くのです。性欲という煩悩がなくなれば、人類という生命もまた消滅します。生命のないところには、神も仏もありません。生命は一切の価値を包含しています。仏陀と言い成仏と言っても、生命の上に表される理想であり価値でありますから、煩悩の手続きを必要とするのです。
換言すれば、男女の性行為こそ、生命の価値(「菩提」)を永遠に保持する方法であり、寿量ご本仏が、自ら不滅の生命を地上に現し給う神秘不可思議の所作なのです。
右の祖文は、性行為の際にお題目を唱えることをお奨めになっているのではありません。「煩悩即菩提、生死即涅槃」という教え(観念)を、男女交会という行為(現実)に一致せしめられているのであり、男女の性行為は本来的に如来秘密神通之力の表現になること、つまり、性行為の本義は南無妙法蓮華経を唱えることそのものであることを教示されておられるのです。
翻って、男女の交会が南無妙法蓮華経の姿であることにを真に得心するとき、不倫もまた為されなくなることでありましょう。