堯舜等の聖人の如きは、万民に於て偏頗無し、人界の佛界の一分なり。不軽菩薩は所見の人の現証を以て之を信ず可きなり。
『如来滅後五五百歳始観心本尊鈔』
文永10年4月。祖寿52歳。全:p80 定:1巻p706
人界の仏界
堯と舜は、中国の皇帝です。三皇五帝と呼ばれる神話伝説時代の帝王の、五帝のうちの二人で、理想的君主とされています。その堯や舜は「偏頗なし」、つまり公平無私であった、そして「人界の仏界の一分」、すなわち人間世界に於ける仏の現れであったと、大聖人は仰っています。伝説時代ではあっても中国史上の人物、しかも釈尊以前の、仏教とは関わりのない人が仏界を現じていることにご留意ください。
悉達太子とは、釈尊のことです。ご出家以前は悉達(シッダールタ)という御名の釈迦族の皇子でした。釈尊が仏身を成ぜられたというと当たり前に聞こえるかもしれませんが、人界で仏となられたまさに実例です。そして、堯・舜のように、釈尊以前に仏教と関わりなく「仏界の一分」を現じた人物がいたとしたならば……。
大聖人が釈尊や堯・舜を例として上げて言わんとされておられるのは、無相密在(姿なく見えない形で存在)する久遠のご本仏が現実世界に姿を現されているということであり、仏が観念上の存在ではなく実在するものであるということです。
久遠ご本仏は、どこにおられるのでしょうか。観念上の理(り。理論)、想像上の産物とお考えになってはいませんか。それは日蓮仏教ではありません。日蓮大聖人さまの仏教は、それまで観念・理として来た教えの悉くを、現実・事(じ。事実)に一致させるのです。ここにこそ、日蓮仏教の独自性があり、真面目があります。
「堯舜等の聖人の如きは、万民に於いて偏頗なし。人界の佛界の一分なり」と言うのですから、ここに現実の仏がおられる、と仰っているわけです。成仏とは、観念や理論のものではなく、現実・実質のものなのです。このことが判って初めて私たちは真の如来を見ることができます。
不軽菩薩がまさにそれです。「所見の人に於て 仏身を見る」。常不軽菩薩は、あらゆる人を礼拝して「我深く汝等を敬う」と仰いました。全ての人の心の深奥に内在する仏を敬ったのです。仏教経典多しと雖も、人間を礼拝するのは、おそらくこの法華経常不軽菩薩品のみでしょう。この人間礼拝こそ、末法の時代の仏教の在り方への指南と捉えなければなりません。
『崇峻天皇御書』には、「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。」とご教示されておられます。