今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし。(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば由由しき僻事也。
『上野殿御返事』
弘安元年。祖寿57歳。全:p1035 定:2巻p1492
由由しき僻事
末法とは、釈尊(お釈迦さま)の滅後二千年以降の時代を指します。闘諍堅固(争いごとばかり)ですとか、白法隠没(正しい教えが隠れる)といった言葉で、その時代相が予言されています。
世相が悪化して正しい仏法が廃れるとされるのですが、実は、これは、それまで正法とされていたものが駄目になることであって、真実の正法は、この時代にこそ興るのです。その真実の正法が、南無妙法蓮華経です。
南無妙法蓮華経を唱えることは、決して難しくありません。手段方法としては実に容易ですが、その功徳(効果)は極めて甚大です。それは、一粒の良薬が起死回生の効力を発揮するのに似ています。
薬が何故効くのか。その理屈が解らなくても、薬の効能に違いはありません。正しい薬を正しく服用しさえすれば良いのです。
僅か七字の題目を唱えるだけで人生苦が解決される、と説かれても、尤もらしい理屈を添えないと納得が行かないかもしれません。でもお題目は理屈ではありません。如来秘密神通之力です。秘密ですから、人智を超越しているのです。
人智を超越した秘密に、無理やりに理屈を付けると、余計なものが混じり込んで来ます。「此の南無妙法蓮華経に余事をまじえば由由しき僻事」とは、その効果を減殺しないためのご注意に他なりません。
末法に入って廃れてしまう正法とは人智による慧解脱の成仏の教えであり、南無妙法蓮華経がもたらす救いは人智を超えた信解脱の成仏です。神秘は、人間の知覚と判断の限界を超越したところから現れて来ます。智慧で解るのは、その限界の内側のことだけです。ですから、理論理屈に拘泥し過ぎると、かえって信の邪魔になりかねません。「由由しき僻事」です。
成仏とは解脱であり、解脱とは人生苦の解決です。理屈は解らずとも、南無妙法蓮華経を信唱し、人生の苦難から解放されれば、安心立命のよろこびの中に住することができます。結果として、大悟徹底した人と何の変わりもありません。
すべての人を苦から救うためには、難行苦行では意味をなしません。簡にして要を得た、正しい易行に限ります。日蓮仏教の偉大さは、ここにあります。僻事をまじえず、素直に真剣に、お題目を唱えてください。