去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか。「必ず心の固きによりて、神の守りも即ち強し」等とは是なり。汝等努努疑ふこと勿れ。決定して疑ひ有るべからざる者なり。
『真言諸宗違目』
文永9年5月。祖寿51歳。全:p709 定:1巻p640
努努疑ふこと勿れ
上の聖文は、龍口法難の際に倶生霊神のご守護をいただいて難を脱れられたことを記されたものです。
「努努疑ふこと勿れ。決定して疑ひあるべからざる者なり」というのは、極めて強いお言葉ですが、これは、日蓮大聖人さまが、龍口の法難の奇蹟を確信せられて仰られたのです。
「必ず心の固きによりて、神の守りも即ち強し」は、天台大師の『摩訶止観』での倶生霊神への解説に、妙楽大師が註釈を付された『輔行伝弘決』の言葉です。日蓮大聖人さまは、龍口法難を始めとするご自身のご生涯の体験を通じての倶生霊神のご守護を、妙楽大師の言葉を引いて断言されておられるのです。
現代は疑いの時代です。フランスの哲学者デカルトは、真理に至るために、疑い得る一切を疑い(方法的懐疑)、あらゆるものを疑っている自分自身の存在は疑い得ない真であり確実であるという答えに到達しました。有名な「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我在り)」であり、デカルトは「近代哲学の父」と呼ばれています。しかし、デカルトは、現象世界にとどまっており、正確な認識論になっているとは言えません。
疑うこと自体は、科学的、合理的な態度の一つであり、決して悪いことではありません。けれども、答えが出ないときには、疑いは疑いのままで残り、何の解決ももたらさないばかりか、迷いを助長してしまうことにしかなりません。
日蓮大聖人さまは、ご自身の修学と体験を通じて得られた確信を記されて、私たちに「努努疑ふこと勿れ」と教導されたのです。
『開目鈔』には、「天の加護なきことを疑はざれ、現世の安穏ならざる事を歎かざれ。我が弟子に朝夕教へしかども疑ををこして皆捨てけん。拙き者の習ひは、約束せし事をまことの時は忘るるなるべし」とあります。この天も倶生霊神のことです。
倶生霊神符を着帯し、倶生霊神のご守護を体験し、信ずれば、現世安穏が保証されます。お題目を決して疑わず、五字七字の信に徹することを、ご本仏、日蓮大聖人さまと約し、この信を持つのです。そこに安心立命があります。
倶生霊神のご守護が、南無妙法蓮華経の信仰を通じて確実に得られるということを弘通して行けば、やがて自然に立正安国の世界が実現することを「決定して疑」がわず、この道を共に歩んで参りましょう。