設ひ科ある者も三宝を信ぜば大難を脱れん歟。而るに今示し給へる託宣の状は兼て之を知る。之を案ずるに難を卻けて福の来る先兆ならんのみ。妙法蓮華経の妙の一字は龍樹菩薩の『大論』に釈して云く「能く毒を変じて薬と為す」と云云。(中略)災来るとも変じて幸とならん。
『道場神守護事』
建治2年12月。祖寿55歳。全:p850 定:2巻p1274
毒を変じて薬と為す
信仰生活の核心は、神仏に護られているという絶対の安心にあります。仮に九識霊断法によって、どんな災難が起こって来るのかを知ることができたとしても、その災難からどのように護っていただけるか。それを決めるのは、お題目の信です。
上の聖文の中の三宝とは、仏・法・僧(信仰団体)を言います。仏は本門の本尊の大曼陀羅、法は本門の題目の南無妙法蓮華経、僧は同信同行の聖徒団であり、聖徒団は本門の戒壇に当たります。信仰と言っても闇雲に何でも信じれば可いというものではなく、この三大秘法を円満具足して持つ信でなければ、本当のご加護を頂戴することは叶いません。
現代人は、眼に見えない神仏の存在を疑い、その守護を信じなくなっています。しかし、それは浅識と言うものです。この世の中で人間の知り得るものは、ほんの僅かな部分に過ぎないことを知らねばなりません。
どれだけ科学が発達しても、世界の不可思議の大半は、不可思議のままであり続けることでしょう。それは、物質によって形成されている世界の奥に、物を離れた神秘の世界があり、人智ではその世界に一歩も立ち入ることができないからです。
神秘世界の中を窺い知ることはできませんが、そこに神仏がおいでになり、私たち人間と「交渉」されておられることは、霊感と霊験によって知られて来ました。お題目の言霊を信じ、真摯に信仰している人は、理屈抜きに神仏のご加護をいただき、災いに遭っても、それを転じて幸いとする、「毒を変じて薬と為す」不可思議微妙が現れます。
これに過ぎる安心はありません。