今法華経と申は、一切衆生を佛になす秘術まします御経なり。所謂地獄の一人、餓鬼の一人、乃至九界の一人を佛になせば、一切衆生皆佛になるべきことはり(道理)顕る。譬へば竹の節を一つ破りぬれば余の節また破るるが如し。
『法蓮鈔』
建治元年(1275) 祖寿54歳作 全:p981 定:1巻p143
一切衆生皆成佛道
法華経の如来寿量品には、釈迦牟尼仏の本体は久遠実成のご本仏であることが説き明かされています。釈尊は、カピラ王国の太子に生まれ、ヤショーダラー姫と結婚し、長子ラーフラをもうけ、その後、出家されて覚りを開かれました。その意味で、私たちと同じ生身の人間です。その釈尊が成仏されて、久遠無始の大霊仏たることを証明されました。人間が神格を成就したのです。
「駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人」ということばがありますように、人間には、階級や職業が様々あり、境遇などに差があって、賢愚利鈍もいろいろですけれども、福澤諭吉が『学問のすすめ』の冒頭に、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と記したように、その基本根本は平等です。ですから、釈尊が久遠実成であるならば、私たち凡夫もまた久遠実成の如来でなくてはなりません。
この道理を捉えて、シナの天台大師は、十界互具、百界千如、一念三千の法門を作り、一切衆生皆成仏道の哲理を明かにされました。しかし、この哲学は、智者学匠のみが味わう観念の妙趣にとどまり、一般庶民大衆のあずかり知らぬ別世界を作る結果にもなってしまいました。それを日蓮大聖人さまが、実益のある宗教に仕立て直され、三大秘法と名付けられたのです。
およそ社会一般の人びとは、なぜ成仏しなければならないのかを知りません。仏とは死者の霊のことであると思っているのが普通かもしれませんから、それも無理ないことです。死を願う者などがおりましょうか。成仏など真っ平御免、ということになりましょう。これは、葬式や法事のみを営為にして来た寺院仏教のもたらした謬りであって、この根本の謬りを打破しなければ、仏教の真価は現れません。
人間が生まれながらにかくあらんと願う理想(誤解を恐れずに言えば「欲望」)を成就することが成仏であり、現世安穏後生善処の安心立命がその内容です。ですから、理屈を知ると知らざるとに関わらず、実は、全ての人は、皆、仏と成るために日夜営々として努めているのです。その望みを直ちに遂げることのできる道が、法華経の実益化した日蓮大聖人さまの三大秘法の救いに他なりません。