過去久遠五百塵点のそのかみ、唯我一人の釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門は常住此説法のふるまいなり。(中略)凡夫即佛なり、佛即凡夫なり。一念三千我実成佛これなり。しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給て日蓮をたすけ給か。
『船守弥三郎許御書』
弘長元年(1261) 祖寿40歳作 全:p1144 定:1巻p230
凡夫即佛、佛即凡夫
天地万物も人間の文化も、悉く神さまの生命の現れである、というのが法華経の思想です。仏教で仏陀を神といわないのは、神と人とは別であるとするキリスト教のような神を認めないからです。
法華経の法師品には、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して此の経を説くべし、如来の室とは一切衆生の慈悲心であり、如来の衣とは柔和忍辱の心であり、如来の座とは一切法空である、と説かれています。如来すなわち仏さまは、柔和で忍耐力と大慈悲心があって、凡てのものに拘泥しないお方であるという意味です。それがすなわち神なる人です。
お釈迦さまは人間の中で始めて仏さまになられましたが、誰もがお釈迦さまと同じように仏さまになれると教えるのが、法華経です。なにゆえに人間は仏さまにならなければこの世の本当の満足が得られないのでしょうか。それは、人間はもともと神の生命を現しているものなので、神から遠ざかるほど苦労が多く、神に近づくほど真実の楽しみと満足が得られるからです。
現代社会においては、生活をするためには相応の経済力が欠かせません。ですから、ある程度の経済力を得ようとする努力は、誰にとっても是非必要なことです。と同時に、経済力の獲得法と使用法を間違えることは、経済力が乏しいこと以上に苦を導くことを知らなければなりません。そのことを知るのが仏になることです。仏さまというと人間離れしているように思うのは、原子仏教の考え方であって、大乗仏教の思想ではありません。法華経の成仏は、凡夫のままの成仏なのです。
成仏には理論と実際があります。理論は知識で作りあげられますが、実際は信仰と信心によって捉えられます。どちらも大切ではありますけれども、実際の伴わない理論は観念遊戯であって、まことに儚いものです。メニューやレシピばかりで料理がないようなものです。理論はよく知らなくても実際にこの世に苦労のない、信心正意の即身成仏こそ、私たちの願い求めるべきものです。