日蓮佛法をこころみるに道理と証文とにはすぎず。又道理・証文よりも現証にはすぎず。
『三三蔵祈雨事』
建治元年(1275) 祖寿54歳作 全:p1071 定:2巻p1066
現証
道理は、展開開闢以来、揺るぎないものです。道理を発見し、その道理に基づかしめるために、教えがあります。しかし、仏教の教えにも数多あり、その中には、広狭があり深浅があり、正邪があり適不適があります。八万法蔵といわれる仏教の教えの中で、その権実を見極め、正しく優れている教え、謬りのない道に依ることは、容易なことではありません。これを学習によってなそうとすれば、いよいよ迷い深く、真実の大法を捉えることは至難の業でありましょう。
日蓮大聖人さまは、現証によって正邪をこころみよ、と仰せになっておられます。これは深く注意すべきご指南です。現証とは、神秘霊験の現れることです(『三三蔵祈雨事』では善無畏、金剛智、不空の三人の三蔵、そして弘法大師、天台大師、伝教大師の、それぞれの祈雨のことを論じておられます)。仏法は道理を教えるのは、謬りを糺して、無益な苦しみを取り除くためです。つまり、苦からの救済が目的なのであって、道理を教えるのは手段に過ぎません。
道理に従って苦から脱れるのは、本人の理解と行いによります。理解力があり、素直さがあり、強い意志を持つ者にはそれができますが、この条件に当て嵌まらない人も少なくありません。従って、教えによって救われる人は、あまり多くはないのです。では、教えによって救われない人を、仏さまは救ってくださらないのでしょうか。これは深く注意すべきご指南です。極めて重大な問題です。
また、いくら智慧があろうが、働きがあろうが、人間の智慧才覚の及びもつかないことが、世の中にはたくさんなります。そういう場合、仏さまはどのように私たちを救ってくださるのでしょうか。この事もまた極めて重大な問題です。
この二つの問題を考え合わせてみるとき、私たちは霊験不思議の救護なくしては救われることがない所以を、お解りいただけることでしょう。
ですから、正法とは、道理に叶っているばかりではなく、仏さまの救いに預かることが出来る法でなければなりません。そうした正法であるならば、理屈よりも現証が先に示される筈です。法華経の講義を聴講して、理解して、感心するだけではまだ浅いのです。お題目の神秘に触れ、如来の救いに感謝できるようになって初めて仏教の深いところに触れたといえるのです。上のご聖訓は、そのことをお教えになったものです。