今日蓮が弘通する法門はせば(狭)きやう
なれどもはなはだふか(深)し。
『四條金吾殿御返事〔四條第四書〕』
文永九年五月(1272)。祖寿51歳作。全:p866 定1巻p634
狭く深い法門
すべての人を救いたいという釈尊の思いなくして仏教はありません。人生苦に沈んでいる衆生を救済することができないのであれば、経文は無意味です。仏教は、世間の苦を救うからこそ仏教なのです。仏様の偉さとか、経典の教えの深さばかりを語ることが仏教であるという勘違いが、どれだけはびこって来たことでしょうか。
日蓮大聖人さまの時代の仏教が、まさにそうでした。これは、慧解脱(智慧による成仏)が仏教の正統であるという誤った考えによるものです。智慧と学問と修行と戒律を成就しなければならないのが仏教だとすれば、それは、限られた一部の人たちのための道であって、一切衆生の道ではありません。だからこそ、南無阿弥陀仏と称えるだけで良いとする念仏、加持祈祷の真言、精神修養の禅などが輩出したのでもありました。
しかし、念仏は阿弥陀如来のみを崇めて仏教の教主である釈尊を退け、真言は大日如来を立てて釈尊をあなどり、禅は不立文字を謳って釈尊の経典を捨てました。もちろん、念仏、真言、禅に罪があるのですが、慧解脱に執して、智解に片寄ってしまった天台仏教にも大いに問題があったのです。日蓮大聖人さまは、正統な仏教が衰退してしまった原因を追究され、法華経から信解脱(信仰による成仏)の法門を取り出し、釈尊の衆生救済の悲願を相続する立場に立たれたのでした。
南無妙法蓮華経の七字こそは信解脱の秘法です。この中に、釈尊の全ての功徳、寿量ご本仏の大慈大悲が籠められているのです。衆生を困苦から救済されようとする大愛大愍の結晶です。
多くの仏教学匠は、釈尊のように学び、釈尊のように修行し、覚りを得るのが仏道であるという思い違いをし続けて来ました。その結果、衆生凡夫を見捨てるような仏教を鼓舞することに繋がってしまったのです。
日蓮仏教は、釈尊を手本とする教えではありません。ご本仏の悲願にすがり、救いを慕い、現世に利益をいただける仏教が、日蓮大聖人さまの仏教です。南無妙法蓮華経と唱えるだけですから、とても狭い教えのように思えますけれども、それは寿量ご本仏の神秘に直結しています。「せば(狭)きやうなれどもはなはだふか(深)し」とは、そういう意味です。この救いの網から漏れてしまう人は誰一人いません。すべての人が救済されるのです。
修行や学問を積んだ人ほど、現世利益は迷信である、という考え違いをしがちです。日蓮大聖人さまの本義に迷い、教主釈尊の本願を忘れてしまっているのです。