今時の行者或は一向に理を尚ぶときは則ち己聖に均と謂ひ、及び実に執して権を謗ず。或は一向に事を尚ぶときは則ち功を高位に推り、及び実を謗じて権を許す。既に末代に処して聖旨を思はず。其れ誰か斯の二つの失に堕せざらん。
『実相寺御書』
建治四年正月(1278)祖寿57歳作 全:p820 定:2巻p1433
理と事
仏教で一番難しい問題は、道理と実際の使い分けです。理論の上では、私たち凡夫も仏と同じ本質を持っています。仏は覚りを開いた人間であり、私たち凡夫は、覚りをひらかない仏です。したがって、理論を重んじ尚ぶ人は、自分には何一つ仏の真似はできなくとも、仏と同じ価値があるような錯覚を起こしてしまうのです。
反対に、実際を重んずる人は、人間の弱点と暗い面ばかりを見つめてしまい勝ちです。すると、私たちには仏の真似は到底できない、人間を仏にする法華経は立派な教えであろうけれども、あまり高等過ぎて猫に小判のようなものだ、そういう高等仏教は偉い人に任せておいて、私たち凡夫には程度の低い阿弥陀経くらいが分相応だ、というような勘違いをしてしまうのです。
この二つの考え方はどちらも仏の本旨を受け取りそこなっています。折角の仏法もこうした考え方の人には、本当の役には立ちません。そこで日蓮大聖人さまはそのどちらにも片寄らず、そしてどちらをも満足させる道として、正しい仏法のあり方をご教授くだされました。それが三大秘法という日蓮宗の教義です。
口で唱える南無妙法蓮華経は、説明を抜きにして直ちに寿量ご本仏の救いのみ手にすがれる神秘の呪文です。智者も愚者も差別なく、一心に唱題すると、感応道交の不思議が現れて、まずこの世の苦労から救われます。これはまさしく念仏と同じ他力本願ですけれども、念仏とは比べものにならない効力があり、実際問題を現実的に解決します。
その信心の体験を土台にして、解(さとり)と行との働きを打ち立てると、どんな理屈屋でも兜を脱いで正しい信仰に基づけるようになっています。それが大曼陀羅をご本尊とする解の道であり、その解がきまると自然に仏の行いができるようになります。それが本門の戒壇という日蓮宗独特の修行です。この信(いのり)・解(さとり)・行(おこない)を名づけて三大秘法と申します。