抑も此の車と申すは、本迹二門の輪を妙法蓮華経の牛にかけ、三界の火宅を生死生死と、ぐるりぐるりとまはり(廻)候ところの車也。ただ信心のくさび(轄)に志のあぶら(膏)をささせ給て、霊山浄土へまいり給ふべし。
『大白牛車書』
建治3年(1277) 聖祖56歳作 全:p1032 定:2巻p1412
生死
仏教は因果と業の教えです。従って、私たちの今生の宿命は、私たちの前世の業を因とする果ということになります。
私たちには前世の記憶はありません。ですから、前世のあったことを得心することはなかなかできませんが、自らの人生において宿命(さだめ)を感じたことがない人は恐らくいないことでしょう。この世に生まれ出た途端に、吉凶禍福の運命は私たち一人ひとりの上に現れています。赤ん坊に責任はありません。前世の約束というほかないのです。
同一の宿命を持って生まれてくる人はいません。国籍、性別、家柄、容姿、能力等々、私たちは、様々なさだめを持って生まれてくるのですが、これは、自業自得といって、自分の行い(業)の結果を自分で受け取っているのです。
前の世があって、その結果を此の世で受け取るのであるとするならば、この世の結果を受け取る後の世もあると考えられるのは当然です。
結局のところ、私たちの人生は舞台のようなものです。楽屋裏に控えていて、生を得て人生という舞台に立ち、死によって幕を閉じてまた楽屋裏に戻るのです。
演劇の世界では、俳優は役柄を上手に演じることが肝心です。悪役であれば、本人の善悪にかかわらず悪を演じ、それが真に迫っていればいるほど、世の評価を得ることになります。
しかし、人生という舞台の場合は、悪を業として評価されることはありません。評価をくだされるのは、仏さまだからです。
いくら世渡り上手にしても、悪人には悪の酬いしかありません。反対に、世渡り下手でも、善人は善の果報を受けます。此の世限りではありません。必ず未来があるということは、人生の大きな希望です。
因果応報、三世両重の因果は、諦めの思想ではありません。人間が悠遠の希望をかけて、立派な行いができるという真理です。慌ててはなりません。
南無妙法蓮華経の信仰は、三界火宅、此の世は火事の家のようなものだという、その猛火を消し止めて、現在の満足と悠遠の希望と併せて受け取ることのできる道です。この信仰は、決して希望を失わせません。必ず不可思議微妙な救いの手が現れて、苦から救ってくださいます。この世の護りを受ける人は、悪に走ることなく、善を貫くことができます。現世も霊山浄土、後世も霊山浄土です。