大豆一石かしこまつて拝領し畢ぬ。法華経の御宝前に申上候。一渧の水を大海になげぬれば三災にも失せず。一華を五浄によせぬれば劫火にもしぼまず。一豆を法華経になげぬれば法界みな蓮なり。
『大豆御書』
文永7年(1270) 聖祖49歳作 全:p1153 定:2巻p1809
一渧の水
一滴の水はたちまちに蒸発して見えなくなりますが、大海の中に入れば永遠に消えません。一輪の花は無常の風に散って行きますが、毎年咲かせる自然の力は永遠に盡きません。一石の大豆であっても、法華経の行者を養う食糧となれば、法華経の大功徳を現します。聖文は、大豆一石の施主に対する功徳の広大無辺であることを教えられたものですが、本体界に帰るという真理を理解した人は、常に人生に喜びを味わうのです。
私たちは、一個の人間としては、無力であり、無能であり、無常でずが、本体の寿量ご本仏の大生命の一部となれば、偉大であり、有能であり、常住不滅です。寿量ご本仏は大自然の本体であり、人間全体の本体です。故に寿量ご本仏の慈愛と尊厳は、社会全体の幸福と平安の上に現れ給います。
神仏という存在は目に見えないものとばかり考えられてきました。知ることのできないものであるから信ずるのであると教えられてきたのです。しかし、これはこかしな話です。目に見えなくとも霊的に存在することを蘊在といいます。蘊在するものは必ず形を以て現れ、目に見える存在になるのです。例えば、種子の中に植物は蘊在しています。それは、出現する因縁に会うと、その姿を現すのです。神仏もそうです。永遠に見ることもできず知ることもできないものであるならば、存在しないのと同様です。
本体の神である寿量ご本仏は、大自然として現れ、文化として現れ、人格として現れ、常住不滅の活動を続けておられます。私たち人間は、寿量ご本仏の大生命の一コマなのです。寿量ご本仏を大海とすれば、私たちは一滴の水です。人間は個々別々の立場に立てばたちまちに消えて行く儚いものですが、本体の寿量仏に帰り利他博愛を以て社会に溶け入れば永遠不滅です。この喜びを教えられたのが、日蓮大聖人さまの三大秘法です。この世に生まれてきた人は、全て寿量ご本仏の活現体です。小さく利己に生きると神仏に背く苦しみを受け、大きく利他に生きると神仏を現す喜びを受け取るのです。人生の幸不幸の岐路はここにあります。聖徒の皆さんは常にこのことを肝に銘じて信仰してください。