悪の因に十四あり。一に驕慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり。此の十四誹謗は在家出家に亘るべし。可恐可恐。
『松野殿御返事』
建治2年(1276) 聖祖55歳作 全:p1090 定:2巻p1265
悪の因
驕慢とはオゴリタカブルこと、懈怠とはナマケルこと、計我とは自分のためにすること、浅識とはナマカジリのこと、著欲とは欲張りのこと、不解とはワカラズヤのこと、不信とは誠意がないこと、顰蹙とは毛嫌いすること、疑惑とは疑り深いこと、誹謗とは悪口をいうこと、軽善とは善行を軽く見ること、憎善とは他人の善行を憎むこと、嫉善とは他人の善行にヤキモチをやくこと、恨善とは忠言に逆らうことです。いずれも人間のもつ悪徳です。
何故、人間にこうした不徳な料簡が起こるのでしょうか。それは正しい道を真面目に受け取ろうともせず、未熟な気持ちで生きようとするからです。要するに、精神が成長せず、肉体の成長とバランスが取れない状態を反省する心の素直さがないのです。
不徳な者の眼で見ると、間違ったことが正しいことのように見えます。ゴロツキや泥棒や詐欺をはたらく者は、いずれも十四の悪を身に付けてしまっている者ですが、そういう札付きでなくとも、世間で良民として通っているような人の中にも、十四の悪から離れられない人がいます。
人は醜いものと美しいものを見分ける心の働きを、生まれながらに持っているものですが、自分の眼は自分の顔を見ることができないように、自分の心や行いろ反省することが難しいのです。他人の行為に関しては検事になり、自分の行為に関しては弁護士になるのが凡人の常です。これではいつまでたっても精神は成熟しません。
自分の顔を見るには鏡を用いれば良いのです。行いの美醜を悟るのは、法華経という明鏡を用いるに限ります。日蓮大聖人さまによって咀嚼せられた法華経は、私たちを凡身のままに即身成仏させてくださるからです。
手続きは至極簡単です。南無妙法蓮華経と熱心に唱えて、現世安穏後生善処を祈るだけです。若し信に徹することができれば、必ず悟りが得られます。