夫れ国は法に依りて昌へ、法は人に因りて貴し。国亡び人滅しなば佛をも誰か崇むべき、法をも誰か信ず可きや。先づ国家を祈りて須く佛法を立つべし。
『立正安国論』
文応元年(1260) 聖祖39歳作 全:p15~16 定:1巻p220
法
国を浄土とし、人に神の働きをさせるのが、真の法です。だからこそ、その法はありがたいのです。いくらお題目を唱えても、国家社会は少しも改善されず、人間も少しも立派にならないようでは、意味をなしません。
現世利益を唱え、お題目を売り物にしている教団がたくさんあります。現世利益が悪いのではありません。現世に利益がないのであれば、私たち人間にとって必要のないものです。しかし、多くの信者を集めている教団の現世利益の中には、国家や社会との連絡がなかったり、あってもその関係が歪んでいたりすることがままあります。ただ病気が治れば良かったり、ただお金儲けができれば良かったり、ただ選挙に勝てば良かったりするのです。法華経の法は、この世を浄土にし、人間を神にする法です。人間は、喜びに満ちた人生を築きあげなければ、生まれてきた甲斐がありません。ただ体が丈夫であったり、お金持ちであったりするだけでは、人生の本当の喜びは得られません。
人生の本当の喜びに満ちている所が浄土であり、その浄土を造る力を現すのが神としての人間です。この肝心要の目的を離れて、病を癒やしてもらうことや、金儲けをさせて貰うことだけを目的として、神佛を利用しようとする料簡を迷いというのです。その迷いの夢を醒まし、人間本来の面目を発揮させるために、法華経の法があります。
それなのに、相手が迷って何かにすがろうとしているのをよいことに、それを食い物にするのが、怪しい教団の共通の遣り口です。先祖信仰を利用する戒名の付け替え、運命信仰を利用する姓名判断、民間の迷信を利用する六曜や方位の占いなどで人びとを釣り込み、巧みに金銭を集める宗教企業株式会社ができあがっているわけです。上聖文の「法は人に因りて貴し」の意味を考えてみれば、これらの宗教業者によって法華経・お題目の真価が傷つけられていることは明らかです。
しかし、高遠な理想ばかり説いていても、人生にもがいている人の助けにはなりません。理屈の宗教ではダメなのです。病気も癒やし、経済的なご利益もあり、この世の願いの満足を得た上で、貧愛の奴隷とならずに即身成仏の目的を成就するものこそ、日蓮大聖人さまが『立正安国論』で教示された真の法であり、聖徒団の信仰です。現実ばかりでも、観念ばかりでも立ち行きません。観念と現実の一致の上に成り立つのが、真実の法なのです。