紙上法話

宮澤賢治の祈り

妹とし子の死



 岩手県立花巻農学校の教師であった宮澤賢治は、大正12年(1923)7月、生徒の就職依頼のために、サハリン(樺太)に旅しました。公務出張であったはずですが、旅費は自費で賄ったと言われています。それは、この旅が、賢治にとって、亡き最愛の妹とし子の魂を探し求める旅でもあったからでしょう。
 その前年の11月27日、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」(『無声慟哭』)であった妹とし子が、24歳という若さで永眠してしまいました。
 賢治は、幼いころから、2歳年下のこの妹を深く愛していました。とし子は、小学生のときから成績優秀で、花巻高等女学校でも首席をとおした評判の才媛でした。
 日本女子大学校家政学部を卒業後、22歳の大正9年9月、英語と家事を受けもつ教諭心得として、母校・花巻高等女学校の教壇に立ちました。
 しかし、丁度1年後、とし子は喀血して倒れてしまいました。当時不治の病とされた、肺結核に冒されていたのです。
 「トシビョウキスグカエレ」。
 純正日蓮主義の教団であった国柱会の東京本部で修業していた賢治に、電報が届きました。
 賢治の献身的な看病も空しく、ひとり旅立つとし子を看取った時の詩が、名高い『永訣の朝』です。
 葬儀は真宗大谷派の宮澤家菩提寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れ、後に国柱会本部に納めました。賢治は、それから半年間、詩作をしませんでした。

ぜんたいの幸福


 サハリンへの旅で、賢治はとし子への思いを詠じました。
  海がこんなに青いのに/わたく しがまだとし子のことを考へてゐ ると/なぜおまへはそんなにひと りばかりの妹を/悼んでゐるかと 遠いひとびとの表情が言ひ/また わたくしのなかでいふ
中略
 (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)/五匹のちいさないそしぎが/海の巻いてくるときは/よちよちとはせて遁げ/(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)/浪がたひらにひくときは/砂の鏡のうへを/よちよちとはせてでる
 (『オホーツク挽歌』)
 「ナモサダルマプフンダリカサ スートラ」というのは、南無妙法蓮華経をサンスクリット語で表現したものです。
 そして、『青森挽歌』は次のように結ばれています。
 《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》
 ああわたくしはけつしてさうしませんでした/あいつがなくなつてからあとのよるひる/わたくしはただの一どたりと/あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつたとおもひます
 大正15年3月末、賢治は「本統の百姓」(『農民芸術概論綱要』より)になる決意で4年4カ月奉職した花巻農学校を退職し、羅須地人協会を立ち上げ、農学校の卒業生や近在の篤農家を集めて、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めました。
 そして、6月に『農民芸術概論綱要』の稿を起こしたのでした。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない……この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか……われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」。

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