紙上法話

信仰を楽しみましょう

道は能通に名づく



「師厳道尊」という言葉があります。「師、厳にして、道、尊し」と読みます。本来は、道が尊いと師は厳になる、という意味だそうですけれども、「師の尊厳が備わって、はじめて道の尊いことが相手にわかる」という意味で使われることが多いようです。
師匠の態度が厳然としたものでなければ、弟子たちは道を軽んずるようになるでしょうから、その解釈も正しいと言ってよいかもしれません。しかし、人を導く者が、ただ鞭を以てすれば効果がある、と解釈してしまうのならば、これは大変な誤りです。「道は能通に名づく」と言って、人と人との心が通じ合うところにこそ、道の真価があるのです。
人の師となる人は、道を守ることに厳なるべきでありましょう。しかし、道を守ることに重荷を感じているのでは、本物ではありません。法華経には「以道受楽(道を以て楽を受く)」という金言があります。道を行うことが楽しくなければ、長続きしません。人と人との心が通じ合い、「異体同心」になること以上に、此の世の楽しみはありません。
ですから、師が道を厳に守らなければ道は尊くなく、そしてまた、師が道を守っても道を楽しむのでなければ道は尊くない、と言えましょう。

和合こそ楽しみ


日蓮大聖人さまは、『上野殿御返事』で
人をけうくん(教訓)せんよりも、我身をけうくんあるべし。
と仰っておられます。
人を教訓するよりも我が身を教訓すべし、との大聖人さまの仰せは、ものを教えることを生業としている人にとって、例えば、僧侶にとっては、なかなか耳の痛いものです。
お坊さんは、「これはお釈迦さまの道です。」「これはお祖師さまの教えです。」と言ってお説教をしますが、果たして、自分がその道を楽しんでいるかと問われると、答えるのに窮してしまうかもしれません。「私」自身が楽しむことができていないのであるならば、私が説いている道は、本当の道ではないことになってしまいます。
僧侶ばかりではありません。人を指導する立場に立てば、皆そうであるはずです。子どもを教育する両親もまた例外ではありません。ということは、大聖人さまのお言葉は、私たちのすべてに向けられたものなのです。
人に道を行わせようとするならば、自分が忠実に道を守って、楽しみの味を先に知るのが一番です。楽しくない道は、真実の道ではないのです。能通すれば、道は必ず楽しいものとなります。夫婦和合、親子和合、兄弟姉妹和合、主従和合、師弟和合、友人和合、同僚和合。和合こそが道なのです。
日蓮大聖人さまは、「異体同心」について「日蓮が弘通する処の所詮是なり」と仰いました。すなわち、南無妙法蓮華経の道は、和合を以て極意とするものなのです。立正安国も和合から、四海帰妙も和合から、家庭の幸福も、寺門の興隆も、宗門の繁栄も、全て和合から始まります。
お題目を唱え、倶生霊神符を着帯する信仰を、周囲の方と共にしましょう。それこそは和合を弘める方法であり、きっと、あなたの最上の楽しみとなることでしょう。

-紙上法話

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