バイオリンを弾く青年
創祖行道院日煌聖人が、生前よく話されたエピソードがあります。
青春の日の或る日曜日、難解な哲学書を繙いていると、たまたま隣家の青年がバイオリンを弾くのが聞こえて来ました。耳について邪魔になるので指で耳を塞ぎ、本を読み続けようとしますが、やがて耳鳴りがして耐られなくなり、指を外すとまたバイオリンの音。また指で耳を塞ぎ……と幾度か繰り返して、結局、読書を続けることを断念せざるを得なくなってしまったのだそうです。
創祖は「これこそが悪魔の正体だ」と仰っています。
もちろん隣家の青年は創祖の読書を邪魔するためにバイオリンを弾いたのではありません。自分が娯しむことが目的だったのですが、創祖が勉強しようとしていたので、バイオリンの音が邪魔になったのです。
無風の時でも、自転車に乗って走れば、自然に風を受けます。人がもし一歩向上しようとすると、周囲の何でもないものが、皆な障碍になって来るのです。人生の問題はそこにあります。
釈尊の降魔調伏
釈尊は、菩提樹の下で覚りをひらかれる際、降魔調伏(ごうまじょうぶく)の闘いをなされたと伝えられています。
又第六天の魔王、或は妻子の身に入て親や夫をたぼらかし、或は國王の身に入て法華経の行者ををどし、或は父母の身に入て孝養の子をせむる事あり。
『兄弟鈔』
第六天の魔王波旬(はじゅん)が、人を惑わすこと天女第一とされる三人の娘たちを使って誘惑させるなど、ありとあらゆる手段を用いて妨害しようとしたにもかかわらず、釈尊はこれを寄せ付けず退けられ、悟りを得られたのでした。
魔は、空気のように世界を包んでいます。前進しようとする人は、必ず眼に見えない抵抗を受けるのです。
魔は、水が低きにつくように、僅かな隙間にも浸透して来ます。油断と骨惜しみは、魔が付け入る絶好の隙間です。
魔は、引力のように人を低きへと導きます。向上と雄飛を志す人には、重しを付けられ、脚を引っ張られるのです。
魔の本拠は人の心の中にあります。「城者、城を破る」こそ、魔の最も得意とするところです。
古来、聖賢は魔の障げを語り、凡愚は魔の存在に気付きません。
魔とは何者でしょうか。
冷酷なる実力考査の試験官です。運命を開拓し、人生の理想を目指そうとする者は、必ず魔の試験を受けることになるのです。
人生に魔があるということは、人間の力を揮い起こさせるための佛意です。麦は踏まれて強くなり、鉄は鍛えられて利刀となります。
聖賢とは、魔の試験に耐えた人であり、凡愚とは、受験の意欲すら起こせぬ者です。
魔事が多いと感じたとしても、怯んだり腐ったりすることなく、聖賢と認められた証拠と思い、誇りを持って立ち向かうことです。
人生万事スラスラと行く場合には、石が坂を転がるようなものと、むしろ用心しなければなりません。