法華経の実践
仏教には多くの宗派がありますが、これは、どの経典が最も優れていて、釈尊の真意を説いているのか、という解釈の相違によって生まれました。これを教相判釈と申しますが、唐の天台大師の教学によって、法華最第一が決定的となり、現代の仏教学者でも、法華経を最も優れた経典と考える人が多いようです。
浄土宗の法然聖人なども、比叡山で法華経を学ばれ、その最勝性は理解されつつも、末法下根の衆生は、法華経の修行に耐えないとする時機観により、念仏を択ばれたのでした。
確かに、天台大師の一念三千は、哲理として完成されていても、衆生救済の宗教としてはどうなのか、ということがあったのです。
この「難信難解」の法華経を実践宗教として完成されたのが日蓮大聖人さまであり、「三大秘法」です。
三大秘法とは「本門の題目」・「本門の本尊」・「本門の戒壇」であり、法華経の祈りと悟りと行いのことです。「本門の題目」は、南無妙法蓮華経と一心に唱えること。「本門の本尊」は、その祈りを捧げる対象は、ご本仏の悟りの中身そのものであり、私たちの心の最奥の表現でもある大曼陀羅ご本尊。「本門の戒壇」は、お題目信仰者に相応しい振る舞いのことです。
「三大秘法の実践」などと申し上げると、難しく聞こえてしまうかもしれませんが、聖徒として、お題目の信仰を続けて行けば、自然と三大秘法は具足されて行きます。先ずは、倶生霊神符の着帯、毎月の盛運祈願会への参詣から始めましょう。
繋がる信仰・繋げる信仰
慌ただしい現代社会での生活は、仏事や信仰といったことがなおざりになり、後回しになってしまいがちです。お寺から足が遠のいてしまったり、仏壇に手を合わせる心のゆとり、時間の余裕を持つことが難しかったりするものです。
毎日、スケジュールで埋まっているのは、人生が充実していることでもありますから、素晴らしいことなのですが、よく「忙」という字は心(忄=心)を亡くすと書く、と言われるように、心に芯を通さなければ、本当の幸せは見えて来ません。
「生かされている」自分に気づき、神仏、周囲の人びと(衆生)の恩を知り、それに感謝し報いようとする気持ちを持つことが肝要です。たとえ経済的に恵まれたとしても、ただせわしない日々を送るだけでは、神仏のお蔭にあずかることもなくなってしまうことでしょう。
信心の仕方には、コツがあります。
抑も今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とほざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずる也。此はいかなる時もつねはたいせずとわせ給ば、水のごとく信ぜさせ給へる歟。たうとしたうとし。
『上野殿御返事』
日蓮大聖人さまが南条時光公に宛てられたお手紙の一節です。大聖人さまと言うと、法難や諸宗批判など、「燃える」ような人のイメージがありますが、その大聖人さまがお勧めになっておられるのは、「水のごとく信」じることなのです。
度重なる法難によって、弟子や信者の中には、法華経の教えを捨て、大聖人さまのもとを退くものが後を絶ちませんでした。南条時光公は亡くなった父親の信仰を継承し、母親と共に深く大聖人さまに帰依し、身延山におられる大聖人さまのもとへ供養の品を送り続けていました。この一節は、そうした上野殿の変わらぬ給仕の姿勢を讃え、信仰のあるべき姿を伝えられているのです。
私たちの心は、熱しやすく冷めやすいものです。しかし、信仰は、河に水が流れるがごとく、途切れずに続けることが大切です。
途切れないとは、世代を超えるということでもあります。掛け替えのない信仰を水のごとく、自分自身の心で繋げるとともに、次世代に繋げることも、心掛けたいものです。ご本仏の久遠とは、実は、信仰の相続にあるのです。