現代日本の信仰心
今の日本人は、人類史上、最も宗教心が乏しい、とも言われています。現代の世界各国の中で、日本人ほど信仰心を持たない国はなく、日本の歴史において、現代ほど神仏を敬わなくなった時代はない、と言うのです。
なるほど、信仰は非科学的だとか、仕事が忙しいから信仰をする暇が無いだとか、年齢的にまだ若いからそういう事は親に任せているだとか、何かと理由を付けては信仰そのものに関わらないようにする傾向が強いように見受けられます。
しかし、コロナ禍も三年となり、今年は初詣の人出がずいぶん戻って来たようです。特定の宗教を信じるのではなくとも、なんとなくの宗教心を持つ人は、まだまだ多いようにも思われます。
また、信仰心が強いように見えても、生活上に何等かの問題が起き、解決方法が見つからない時に、藁にもすがるかのようにその宗教(教え)が正しいか正しく無いかを理解することもなく、名前を聞き知った宗教に入信し、一時的な助けを求めてしまう人も少なくないようです。
こうした信心もどきは、真の信仰には決して繋がりません。
日蓮大聖人は『妙一尼御前御返事』に
それ信心と申すは(略)法華経釈迦多宝十方の諸佛菩薩諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱え奉るを信心とは申候也
と仰せになられています。
苦しい時の神頼みは所詮正しい信仰心とは言えません。お題目の信心は、貯金のようなもので、日ごろからお題目の功徳の蓄えをしていてこそ、ご加護やご利益を頂戴することができるのです。
功徳を積まない者には功徳は無いのであり、悪縁によって信心が薄くなってしまったり、お題目を捨ててしまうような心が起こったり、自身の都合での信心は本当の信心とは言えません。
毎日の信仰がいかに大切であるのか、気まぐれの信仰では何故ダメなのか、私たちは、よくよく考え直さなければいけません。
日常の修行
では、毎日の信仰とはなんでしょうか。毎日の修行です。修行と聞くと、とかく大変なイメージがあると思います。しかし、難しい大変なものばかりが修行ではありません。
私の聖徒団では、毎日お寺に来て本堂前で手を合わせお経を読まれている聖徒さんがいらっしゃいます。
その聖徒さんには、何か叶えたい願いがあるのかもしれませんし、日蓮大聖人さまへの報恩感謝の祈りを捧げておられるのかもしれません。お寺に参詣される理由は、人それぞれ、千種万様でもありましょう。
しかし、どなたにも祈りに繋がる信心があります。この信心があってこそ、行動の中に修行が伴ってくるのです。自宅の仏壇の掃除、毎朝のお茶・お水・ご飯のお供えも、立派な修行の一つとなります。
少しのことでも毎日実践するという事はなかなか難しい事ですが、だからこそ、日常の修行が肝心なのです。
日常の祈り
信心の源となるのは願望です。願望を持っていない人はいないことでしょう。願望とは欲です。言い換えれば煩悩となります。煩悩と聞くと良い言葉に聞こえないかも知れませんが、煩悩は悪いばかりではないのです。
願望は人が生活する上で重要な生き甲斐になります。この願望が神仏に向かうと、祈りとなり、信仰的な動作となるのです。
私たちは、往々にして勝手な欲望を持ってしまうものです。労せず得を望み、仕事をせずに金銭を望み、不摂生をして健康を望むことが多いのですが、これを正しい祈りに繋げるのが、あるべき日常の祈りです。
日蓮大聖人さまは『祈祷鈔』に
法華経の行者の祈りの叶わぬ事はあるべからず。行者は必ず不実なりとも、智慧は愚かなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備わらずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし
と仰せられています。これは、絶対のご守護であります。
但し「法華経の行者」であることが条件です。
では、法華経の行者とは何でしょうか。これを、難しく考え過ぎてはいけません。信仰を理屈で理解しようとすると、大聖人さまのご真意を見損ないます。大聖人さまがここで仰っているのは、私たちは必ず護られる、ということです。
日常の信仰より得られる功徳
日常の信仰とは、先ず、毎日きちんとご本尊さまに祈りを捧げることです。その祈りが真摯であれば、必ず功徳が積まれて行きます。真摯に祈る時、人は必ず襟を正すものです。真摯に祈るのに、寝そべって、遊び半分に、埃だらけの仏壇を拝む人はいないことでしょう。日々の仏道修行の実践、御本尊への切なる祈りによって功徳が必ず与えられます。
功徳は降って湧いてくるものではありません。正しい信仰生活を送り続けることによって、自然に「必ず守護し」て頂けるようになるのです。