紙上法話

主師親の三徳の修行で迷いから悟りへ

法華経の文字はすべて仏さま


「一々文々是真仏」ということばがあります。

法華経の一文字一文字は仏さまそのものであり、一文字もおろそかにしてはならないということです。また真仏の説教は、すべての生命を利益するともいわれます。真実の仏である久遠実成の本師釈迦牟尼仏は、法華経をもって真の救いと安らぎを与えて下さいます。それは久遠の釈尊のみが三つの徳をもっておられるからです。

その三つの徳とは、法華経の譬喩品(ひゆほん)第三に「今の三界は、皆これ我が有なり(主)。その中の衆生は、悉くこれ吾が子なり(親)。しかも今この処は、諸の患難多し。唯われ一人のみよく救護をなす(師)」とある主・師・親の三徳です。

久遠の釈尊は、すべての生きとし生けるものを、自分と等しく苦しみから離れしめ、智慧を得せしめる本当の仏であるということです。

この迷いの世界を悟りの世界にしなければならない責任を担う「主」であり、迷いの苦しみより人々を救う「師」であり、人々を吾が子であるという慈しみを懐かれて護って下さる「親」であるということです。

釈迦仏は我等が為には主なり、師なり、親なり。一人してすくひ(救)護ると説かせ給へり。『主師親御書』

法華経をもって末法の世を救おうと決意された日蓮大聖人さまは、このご本仏の「主・師・親」の三つの徳を尊び、敬い、信じることが真の幸福と成功をもたらす唯一の道であるとお教えです。

すなわち「主・師・親」の三徳に対し、「従・弟・子」の三道を以て修行することを教えられているのですけれども、「所化以(しょけもっ)て同体」、我等凡夫こそ本仏とし、即身成仏を掲げるのが日蓮仏教ですから、三徳をひとり釈尊の徳として仰ぐだけではなく、私たちの修行の目標、生活の手本としても考えてみたいものです。

主師親三徳を自分の修行目標に

 第一の「主徳」とは、ご本仏が衆生を守護する徳のことです。自分の生業や、人や社会との関係において、主人のような責任感を持って対処すること。これを「主の徳の修行」と考えてみてはどうでしょうか。


第二に、「師徳」とは衆生を導き教化する徳です。迷い悩んでいる人に対しては、正しい教えをもって聖徒団の信仰に導き、その人を救おうと努力すること。これを「師の徳の修行」とは言えないでしょうか。

 第三に、「親徳」とは衆生を慈愛する徳のことです。私たちは、数限りない人との関わりあいで生きています。自分の好都合だけを主張し、身勝手な生き方をすれば、この世は乱れます。それゆえ、家族のみならず、地域、社会の全ての人びとに対しても、我が子に対するような慈悲の心を持って臨むこと、これを「親の徳の修行」としてみたいと思います。

 いずれも簡単なことではありませんが、三徳の一分を自分にも現じさせようという志、心構えを持って生活することこそ、真の法華経信仰でありましょう。

 法華経において、私たちにとって唯一の有縁の仏ある久遠の本仏釈尊が開き顕されました。

 しかもその久遠実成の本師釈迦牟尼仏が、主・師・親の心をもって、私たちを救い、護り、導くために、大良薬として日蓮大聖人さまを通して譲り与えて下さったものが、南無妙法蓮華経のお題目と倶生霊神符なのです。

 私たちがお守りを着帯し、お題目の道を持ち・行い・護り・弘めなければならない所以はここにあります。

 迷える人はみな、孤独にして()()のない闇の中を徘徊する存在です。南無妙法蓮華経の信心に生きるとき、淋しさは救いの光に充ち、依る辺となり、常に幸いに満たされるのです。

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