「何も悪いことをしていないのに、何故こんなに苦しいことばかり続くのだろう」。よく聞く言葉です。多くの人がつぶやく日常生活の中の愚痴かもしれません。
私たちは、誰もが「宿命」を持っています。人生の「さだめ」です。性別や体質をはじめとする「生まれつき」の条件や環境について、自分でこのようでありたいと思って生まれてきた人はひとりもいません。人生は、もともと自分の思う通りになるものではないのです。
宿命は変えられなくとも、宿命を活かしてより良い人生を送ることはできます。信仰はそのためのものです。
仏教には、業という教えがあります。何やらおどろおどろしい響きがあるかもしれませんが、業には悪い意味は全くありません。業は「行い」「行為」のことです。古代インドの人びとは、行為にはそれに伴う果報をもたらす潜在的な力があると考えて、この力のことも業と呼びました。
自分の業の果報は、自分が受け取ります。自業自得です。善行をして善い果報を得る、悪行をして悪い果報を得る、いずれも自業自得です。
そして、この業は人の死後にも存在し続け、輪廻転生の原動力となると考えられました。
輪廻転生とは、一生を車の車輪に見立てて、車輪が回るように生まれかわり死にかわりを繰り返すという教えです。仏教以前からインドで広く行き渡っていた思想でした。
「生まれかわり」というと、現代では「非科学的」と考えて、抵抗感を持つ方も少なくないようです。しかし、死後の世界の存在しないことが科学的に証明されているわけでもありません。むしろ量子論などに基づいて死後の世界の存在可能性を説く科学者も増えてきています。
お釈迦さまにも転生の物語(ジャータカ。本生譚、前生譚ともいいます)が伝えられています。尸毘王が、バラモン僧のために両眼を供養したけれども、そのバラモン僧は実は帝釈天で、王に両眼を戻したという話や、飢えた虎とその7頭の仔のために王子が身を捨てて供養した話などが有名です。
法華経にもジャータカがあります。日蓮宗の降誕八〇〇年の合い言葉「いのちに合掌」は、あらゆる人たちを「我深く汝等を敬う」と礼拝した常不軽菩薩に由来しますが、この菩薩も、法華経の説くお釈迦さまの前生の一例です。
常不軽菩薩や尸毘王として修行された前生を悉達太子として自業自得され、さらに修行を重ねられて、お釈迦さまは仏陀になられたのです。
さて、法華経の教えの肝心要は、そのようにして仏陀となったお釈迦さまのご本体は、久遠の命を持ったご本仏であるということです。このご本仏のお名前を「妙法蓮華経」と申します。そして、私たちはそのご本仏の分身であり、私たちの総和こそがご本仏なのです。つまり、私たちの本体もまたご本仏なのです。
釈迦族の皇子として生を受けられたお釈迦さまとて、人生苦に深く悩まれました。覚りをひらかれる(本仏である自己の本性を開顕される)ために、多くの修行を積まれ、善業をなされたのです。
では、私たち凡夫は、どうすれば本仏としての本当の自己を現出させ、宿命を活かすことができるでしょうか。
ご本仏の大慈大悲(愛)を引きだすことです。ご本仏のお名前をお呼びする「南無妙法蓮華経」のお題目を信唱することこそ、そのための修行です。唱題修行により、ご本仏の徳を譲り与えていただくのです。
自分が久遠のご本仏の一分であることを信じ忘れず、毎日のお題目の修行にお励みください。そして、ご本仏の愛を頂戴し、私たちの「命」をこそ久遠とし、宿命を活かしたより良き人生を送りましょう。