ブッダが馬のエサを食べざるを得ない理由
ある国の城内で、ブッダ(お釈迦さま)が夏安居(外出せず修行する期間)の3ヵ月間、弟子二人を除いた498人とともに馬糧(馬のエサ)の麦の供養を受けたことがあった。
飲食を供養する約束を破った国王に代わり、500の馬を率いた旅の商人が供養を申し出たのである。
商人にとって大切な馬糧の麦を3ヵ月間、ブッダとその弟子たちに供養したのである。
ブッダは「馬の麦を食べなければならないのも、私の業の報いだ。これを受けよう」と次のように示した。
たとえ百劫を経るとも
作れる業は消え失せず
因縁めぐり会う時に
その報いやがて我に来る
そうした中で、舎利弗と目連の二長老だけが、この場を去って三峯山にて天人の供養を受け3ヵ月そこに住した。
残された498人の弟子とブッダ。弟子たちは「無上の覚りを得た尊い仏がなぜこのような目に遭うのか」と疑問が生じブッダに尋ねた。
昔、500の児童を教える一人のバラモンが人々の尊敬を集めていた。そこに新たに毘婆尸如来が現れ、その名声をさらってしまったので、そのバラモンは深く嫉妬した。
ある時、毘婆尸如来の弟子たちの乞食の鉢を見たバラモンは「このような美味佳肴を受ける資格は、こ奴らにはない。馬糧の麦でも貰うのが相当だ」と罵った。
バラモンの教え子たちも先生の言う通り「馬糧の麦でも貰うがいい」と囃し立てた。
しかし、その中の二人の賢い童子が「悪口を言うものではありません。この方々は尊い方で天人の供養を受けられる方です」と先生のバラモンをたしなめたのだ。
その時のバラモンとはブッダの前身であり、500の教え子とは今のブッダの弟子たちである。二人の賢い童子は今の舎利弗と目連である。
この悪口の業によって私とお前たち498人の弟子は馬糧の麦を食べ、舎利弗と目連はこの悪口に随わなかった善因によって、三峯山において天人の供養を受けたのである。悪業には悪い報いがあり、善業には善い報いがあるのだ。
日常生活で気にならない小さな悪意に懺悔を
私たちは、ちょっとした軽い気持ちでも、あるいは深い悪意があっての上でも、このような雑言を吐くことはさほど気にとめるほどではないと思っている。
しかし聖典懺悔文の冒頭に
『因果のことわりは厳正にして犯し難し微罪も猶悪報をまぬがれず』
とあるではないか。テレビ、新聞等の重大な罪ばかりが罪ではない。日常生活で小事と思われている悪心。他人の不幸を笑う心、瞋る心、嫉妬心、冷酷さ等々。毎日気付かずに悪心を起こして他人を傷つけてはいないだろうか。
毎日風呂でその日の汚れを洗い流すように、心の穢れを積み重ねないようにするにはどうしたら良いか。
それは自分の心を自覚し、み教えにわが身を照らし、小さな罪業でも見逃さず悔い改め続けることだ。
その助けとなるのが、倶生霊神符を身に着けることと、お題目の南無妙法蓮華経を唱えることだ。
さて、先の話の王はどうなったであろうか。尊いブッダと弟子たちに3ヵ月もの間、飲食の供養を惜しみ約束を守らなかった罪はいかばかりであろう…。王はこの度の自分を恥じ、これを悔い赦しを願い出た。
ブッダは過失を造っても、心から悔い改めさえすればその罪は消え、却って福が生ずる。福が生ずるのは過失の縁によって悔ゆるという清い心が起こるからであると語った。