首導月訓 令和5年の月訓

首導月訓(令和5年5月)


◆現代日本人の多くは、無宗教の宗教信奉者である。先祖のお墓を通じて霊に接する程度の宗教情操はまだ何とか残っているが、自家の宗旨を理解して信仰している者などほとんどおらず、心の中から求道心が湧き起こるなどということもまずない。

◆実際に信仰しているにしても、種々雑多の御札を祀り込み、家内安全、息災延命、商売繁盛を祈るくらいのものである。その拝んでいる神様の由縁についても、訳がわからず、慣習によって、その方が何となく安心、という程度である。

◆これも一つの宗教であると言えば言えないこともないが、その人の信仰が同時にその人の生活と一致しているのでなければ、安心立命の境地など得られようはずもない。

◆つまりは信仰の真似事をしているだけであるから、真実に触れて信仰の喜びを受け取ることもない。何か不運に見舞われでもすれば、悪い方位がどうとか、厄日だったとか迷い始め、くだらない迷信のとりこになるのが落ちである。

◆かかる低級な精神生活を送るのではなく、真剣な求道心を起こし、宗教の実際に触れることなくして、国民精神の向上は望めない。

◆何も仏教の信仰をせよとまでは言わない。気に入った宗教を求めるが良い。「たしかウチは禅宗で」とか、「一往、仏教徒です」というような、自分の心の置き所がハッキリしないような状態よりは、何であれ筋道の立った宗教を真面目に信ずる方が、怪しい仏教徒であるよりはるかに勝るであろう。

◆右はむろん、倶生霊神符を着帯する聖徒には無用の論である。そして、右が真に無用な社会を作ることが、聖徒団の目指すところの一つである。

日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞

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