◆「君子は和して同ぜず」という言葉が『論語』にある。儒教の理想的人格者である「君子」は、世の中の平安を望むが故に、不本意であっても他者と和するけれども、自己を見失わない、というような意味である。しかし、同ずることの出来ない和というのはない筈である。
◆仁とか、愛とか、慈悲とかいうものは、同じ立場に於て初めて成り立つのであって、同じ共通せる生命の内容があるから、その共通面に立つ時に愛がある。
◆生命の在り方を端的に申すならば、それは愛である。より佛教的に言うならば慈悲ということになるが、慈悲と表現すると、どうしても上位のものから下位のものへ、というイメージになってしまうから、敢えて愛と言う。
◆愛とは、私たちの第九識の本質を言うのである。上にも下にも横にも、お互いに和して同じ行く時におこる心を愛という。
◆動物にも親子の愛がある。しかし人間と大分違っている。人間の場合は本能的にだけあるのでなく、理性的な判断も加わっている。動物なら、親子の愛は、子がある一定の成長をする迄の期間に現われる。
◆人間の場合には、子が成人になっても愛情を持つ。何故であろうか。人間の場合、育てるという目的だけでなく、子をも一員とする大きな和を作っていかなければならないからである。この基本的な条件は、親子であるとないとにかかわらず、全ての人との間にある訳である。
◆人間は、社会を形成しながら生命を保つという共通する生命の内容を持つ。故に、誰もが、本来は、全ての人を愛するという基本条件がある。そこに人格がある。言葉を換えて言えば、これは九識の佛格が、始めて人に人格を作らしめているのである。
◆『諸法実相鈔』に「凡夫は、体の三身にして本佛也」とある。体同である。全ての人は、本佛と体を同じくする。これが秘密身である。これが生命である。だから、四徳波羅密が全ての人の究意目的となる。その究意目的の所在こそ実に本佛の所在なのである。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞