◆人生には、万人がかくありたいという究極の目標がある。これを究竟目的と言う。
◆究竟目的である常・楽・我・常の四徳波羅密は、従前、仏陀の智慧に依って開拓せられた、人生究竟の理想世界であると考えられていた。すなわち、文化の力で理論的に突き詰めて、そういう思想が出来たかのように思われていたのである。
◆しかし、実は四徳波羅密は人間の理想ではあるが文化の産物ではない。本能として人間の心理の中に籠められている自然天与のものである。だからこそ、万人が同じことを望むのである。
◆すなわち、常・楽・我・常の四徳波羅密は、生命運営の基本方針に他かならない。
◆人間は、正常な精神状態においては、例外なく、死にたくない長生きしたいと念じている。死にたくないということは、不死の生命を求めていることでなくて何であろう。それが常住不滅の生命を欣求する本能であり、これを名づけて常波羅密という。
◆また人間は安楽な生活がしたいと念じている。その方法目的として財産、地位、名誉を必要とするのである。それが安楽生活を欣求する本能であり、これが楽波羅密である。
◆また他人より拘束せらるゝことを嫌い、自主自由であることを念じている。人類史において民主主義、自由主義の政治が次第に広まり、思想、言論、集会、結婚、就職などの自由が確保されて来た。これみな、自我の解放を欣求する本能であり、我波羅密である。
◆これら常・楽・我の三つの生存の基本目的は、その永続と安全を保証する国家社会がなければ、凶暴なる者、強悪なる者に脅かされ、常に危険に晒される事になるから、平和にし安泰なる楽土が是非必要である。それが闘争や犯罪のない平安の楽土を欣求する本能であり、浄波羅密である。
◆人生の究竟目的は此の四つの要求の中に全部納っている。それを如何にして成就するかを目指して、人類の文化文明は発達して来ているのである。
◆仏陀の衆生済度も究竟目的を成就させるための手段と考えれば誤りはない。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞