◆古来、法華経は「万善同帰」であるとされて来た。全ての善きものが法華経に帰する、全仏教が悉く法華経に入っている、と考えられたのである。
◆日蓮大聖人さまは、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」(『観心本尊鈔』)と喝破された。「万善同帰」と似たようにも思えるが、実は全く次元が異なる。法華経から妙法五字へと昇華され、「以信代慧」の実践宗教が生まれたのである。
◆もちろん「万善同帰」を否定されたのではない。万善の功徳、釈尊の因行果徳は、法華経の「肝心」である妙法五字に籠められている。だからこそ、私たちはその五字を信じ、受持すればよいのである。「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」(『観心本尊鈔』)。
◆ところが、わざわざ万善や因行に戻りたがる人たちがいる。釈尊や原始仏教の戒定慧をそのまま行ぜねばならないと勘違いする者がある。戒定慧は三大秘法に昇華されている。逆戻りする必要はない。
◆対岸に渡るには船に乗ればよい。泳いで渡らねばならないと考えるのは文化の否定である。対岸ならまだ渡れるかもしれない。月にはどうやって行こうというのか。
◆「力あらば一文一句なりとも談らせ給べし」(『諸法実相鈔』)であるから、各々の機根能力に応じた如説修行はなされるべきである。経を読む力のあるものは読経すべし、字の書けるものは写経すべし、財力に応じて財施すべし。
◆妙法五字を信じて、南無妙法蓮華経の道を持ち、行い、護り、弘める、ことを誓い、七字を唱えるのであるから、それに適った生き方をする。お題目を唱えてつつの不正や怠惰(たいだ)はあり得ない。
◆根本は五字への信である。これを履き違えれば、成仏は机上の空論となる。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞