聖徒団信仰Q&A

聖徒団信仰Q&A〈第35回〉「加藤清正」

質問ちゃん
問 加藤清正と法華経の関係を教えてください。(青森県 70代 男性)
お答え上人
答 「八戸三社大祭で加藤清正を題材にした山車が奉納されることがあります。必ずお題目の旗が掲げられるのですが、どのような理由でしょうか」とのご質問です。八戸三社大祭の山車は毎年作り替えるとのこと。今年はどのような山車が登場するのか、とても楽しみですね。
 加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将で、篤信な法華経の信者でした。
 生家のあった尾張国愛知郡は六条本国寺(後に本圀寺)門流の拠点となっていたことから、清正は幼少期から法華経信仰が篤かったと伝えられます。
 やがて、大阪に瑞竜院を創建。その後、肥後(熊本)の領主となってからは、瑞竜院を熊本に移築し本妙寺と改称したほか、熊本の常光寺(現在の妙永寺)、本覚寺、大分の法心寺など数多くの寺院を創建し、九州各地に法華経を弘めました。
 文禄元年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、お題目の旗を掲げ、妙経一万部読誦会を修して戦勝祈願をしました。また、慶長11年(1606)には、生母の7回忌供養のために、池上本門寺に祖師堂と正面の石段を建立しています。
 さらに清正は、人材育成にも力を注ぎました。朝鮮出兵の際に捉えた2人の王子の才能を見抜き、日本へ連れ帰りました。この王子たちは後に出家し、法華経布教に大きな功績を残すことになります。
 九州西部の法華経信仰の基盤は、清正によって築かれたと言っても過言ではありません。しかし清正は数え年50歳という若さでこの世を去りました。
 清正が逝去すると、直後から、清正が行った仁政と熱烈な法華信仰への哀悼と報恩の念から、権化の人と伝承され、清正公大神祇(せいしょうこうだいじんぎ)として崇敬する「清正公信仰」が生まれました。清正公は、現代でも宗派を超え、多くの方々から信仰される存在であり続けています。
 聖徒団総本部である東京世田谷烏山の幸龍寺は、本圀寺の触れ頭であったことから、清正公大神祇がお祀りされており、清正公堂には『江戸名所図絵』で知られ、幸龍寺に墓所がある長谷川雪堤の「清正公朝鮮出陣図」もあります。

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