宗教というものは、人間の限界を超えたものに対する救済として、未開の太古から人類に自然に芽生えたものです。聖人と仰がれるようになった人びとの「悟り」と努力によって、今日に伝えられて来ました。例えば、釈尊の教えはもちろん、イエスの教えも、人間の限界を見つめた上で、人間の真実に応え、超越者と繋がる真理を説いたものであり、それを正しく信仰することができれば、幸福になることができるはずのものです。
しかし、長く伝承されるうちに、或いは、教団として組織化される過程で、至らぬ継承指導者の私義が混入したり、性急な一般信徒の浅慮に同調したりして、また、そもそもが俗物でしかない者が俗心のままに邪教を説いたりすることなどもあって、如何わしい教えを弘めている教団が多いこともまた事実です。
人間の真実とは、生活であり、信頼であり、和合です。人間の希望は、この真実を正しく実現して行くことにあるのであり、その実現の道こそが真理なのです。宗教の教える真理は、この三つの条件が成就する方法を教えねばならないはずですが、現実にはそうなっていないようです。
信仰一途は結構なことなのですが、それが家庭での信頼を損ない、家族の和合を乱すのであるとすれば何のための信仰か分かりません。他者に無理を強要することも、病気が治るとか、お金儲けができると浅薄なご利益を売り物にして勧めることもまた真理に叶っていません。
聖徒団の信仰は、日蓮大聖人が身を以て開拓された一切衆生悉皆成仏の秘法により、生活を安定し、信頼と和合の中に住する信仰であり、誰をも幸せに導く信仰です。