人生は生きるに値するのかを問うことは、人間にしか出来ないことであり、誰もが一度は自身にこの問いを投げ掛けたことがあることでしょう。
意外に思われるかもしれませんが、佛教ではこの問いを掲げません。釈尊は、人生は苦に満ちていることに気付かれ、その苦から解脱して生きて行く方法を説かれて、善く生きる道を示されただけなのです。
人間の一生は、幸福を求め続けることです。幸福とは何であるかというのも、誰でも知っているようで、考えれば考えるほど解らなくなるようなことですが、行き着くところ、人生に満足することが幸福であると言えます。
満足するとは、求めているものが得られる状態のこと。そして、人の求めているものは、煎じ詰めると、常楽我浄、すなわち、死なない生命、安楽な生活、自主自由、清浄で安穏な世界、の四つになります。これが四徳波羅蜜です。
死にたくない、苦労はしたくない、勝手気儘にしたい、汚れた危険なところにいたくない。人間は、誰にも教わらなくとも、自然にそういう希望を持つように生まれついています。では、何故、人はそういう希望を持つのでしょうか。ご本佛が人として現れているからである、というのが仏教の教えです。
四つの希いは、四つとも叶えられていませんし、叶えられる見込みもありません。あたかも、佛は苦しむために人として現れているかのようです。
不思議なことに、この四つの希いは、個人の立場では全く叶えられませんが、人類共同の立場に立てば、全て叶えることが出来ます。人類が総和し、社会全体が自分であると皆が覚れば、不死も安楽も自由も安穏も、現実のものになります。その意味では、個人を解脱して総和するために、私たちは生きているとも言えましょう。