質問ちゃん
問 創祖はどんな方だったのか教えてください。 (和歌山県 70代 男性)
お答え上人
答 前回申し上げたところで判ります通り、創祖は、御遺文集の編纂主任をお務めになられる以前は、必ずしも教学研究の道を歩いて来られたのではなかったのですが、大聖人の六五〇遠忌に当たって『日蓮聖人御遺文 全』を編まれた際、御遺文を通読すること七回に及び、往時の日蓮宗学の在り方に疑問を持たれ、教学研鑽の道を歩み始められ、今日に続く独自の教学である「新日蓮教学」を構築して行かれることになったのでした。 昭和9年(1934)に日蓮宗宗務院の宗務主事、同10年教務主事、同11年に総務主事を務められました。この間、昭和10年に東京都本所区(現在の墨田区)の善行院の住職となられています。 昭和13年には、増田宣輪師や西川景文師とともに、皇道佛教行道会を結成され、首導となられました。日蓮宗の教学審議会の委員となられ、湯川日淳師と共に布教方針の専門委員に選ばれて、新教箋新調案を企画し、塩出宗務総監の承認の基に、当時の時代潮流に合わせて祖道を弘める試みとして、「法華経の妙理をもって日本国体の尊厳なる所以をあきらかにし、大乗佛教の真精神を発揚して天業を翼賛し奉る宗教」(『皇道仏教行道会の宗義』)組織を立ち上げられたのでした。治安維持法下において戦時体制が進む中で、廃佛毀釈の再来に備えるお考えもあられたようです。 「王佛冥合の三大秘法」を掲げ、皇道翼賛の教えを宣揚したため、現代でも誤解されていますが、四種本尊観などを始めとして、後の新日蓮教学の骨格はこの時すでにほぼできあがっておられました。 行道会は、大いなる布教成果を上げたようですが、宗内の反対勢力との軋轢で宗政上の混乱が巻き起こり、国権の介入を招くという事態にまで至って、昭和17年には解散となりました。 善行院は東京大空襲で焼失してしまいましたが、戦後、間もなく再起され、昭和23年には、国民精神の回復と向上のため、尾崎行雄や武者小路実篤等と「耕心」運動を始められました。〔続〕