聖徒団信仰Q&A

聖徒団信仰Q&A〈第8回〉「創祖」①

質問ちゃん
問 創祖はどんな方だったのか教えてください。 (和歌山県 70代 男性)
お答え上人
答  創祖行道院日煌(髙佐貫長)聖人は、明治29年2月22日に奈良県で誕生されました。旧姓は大中、幼名は源吾でした。大中家は笠屋という屋号を称する、名主の家柄で、16代続いて源平と名乗っていたそうです。
幼少の時に京都加悦実相寺の養子になりましたが、やがて出奔してしまわれます。そして、後に曹洞宗の宗務総長になる奥村上人という方のもとから、永平寺で修行されます。程なく本宗に復帰、当時日本に併合されていた朝鮮の釜山にあった京都本山妙覚寺の別院の住職髙佐顕正師の養子となり、髙佐姓になられます。
明治45年に上京して墨田区本所の法恩寺住職・新甫寬実師に迎えられ、長瀬日寛師と「日宗新聞」を発刊、「横浜夕刊新報」という日刊紙の編集長をされ、その後、日蓮宗新聞の前身の「日蓮主義」の編集長などをなされました。大正九年頃に、栗原トーマス喜三郎という方に師事して映画の技術を学んでおられます。
大正10年に朝鮮半島に渡り、大正13年7月、朝鮮キネマ株式会社を興されました。朝鮮半島で初めての映画会社です。11月に自ら脚本を書き、「海の秘曲」を制作されました(監督も自身でされたとの説もあります)。俳優に現地の方を起用した他、ご自身の映画制作のノウハウを伝授し、朝鮮の映画文化の黎明期に寄与されました。
帰日後、昭和6年に日蓮大聖人六五〇遠忌を記念して発行された普及版の御遺文集『日蓮聖人御遺文 全』の編纂主任を務められました(行道文庫より再刊、頒布されています)。当時の日蓮書誌学の第一人者稲田海素が校訂、宗学の泰斗風間随学が監修、顧問として小笠原長生海軍中将、東京大学の宗教学講座を開設し、『法華経の行者日蓮』でも知られる姉崎正治や、『法華経大講座』で著名な小林一郎などが名を列ね、後にともに宗務総長となる西川景文、片山随英(日幹)両師が編纂担当として創祖を補助されました。〔続〕

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