食法餓鬼と申は、出家となりて佛法を弘むる人、我は法を説けば、人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思て今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法餓鬼とて、法をくらふ餓鬼と申すなり。
『四条金吾殿御書』
文永8年(1271) 聖祖50歳作 全:p863 定:1巻p494
僧侶
聖文は、職業宗教家である僧侶にとって、甚だ耳の痛いご教訓です。弁舌が立ち、立て板に水のごとくに教訓を垂れる「布教家」や、御尤もなことを勿体ぶって説法する「名僧」たちの腹の中に入ってみると、世の中を救う、仏のみ手となることよりも、自分の名聞名利を目的としていることがままあります。
職業宗教家に、その手のまやかし者が多いのは事実であり、立派な寺の住職になったり、宗門の役職に就くことばかりを考えて、真の宗教家になるための学問や修練をおろそかにしている輩が後を経ちません。
名聞名利とは名誉と利得のことです。この二つを手に入れようと願うのは、生まれながらに誰でもが持っている人間の本能に由来します。ですから、宗教家だからといって、名誉心も利欲心も全くない、というわけには行きません。しかし、真の宗教家であれば、こうした人間の天性をよく理解して、弊害のないように自制するとともに、自利を計るばかりではなく、世の中の人の依怙となって、仏祖の救いの道を弘め、自分が行うのはもちろん、他者に行わしめるように努めるべきは当然です。その肝腎なことを忘れると、食法餓鬼になります。
日蓮大聖人さまは、人間の弱点を勘案された上で、子どもに大人の鎧を着せたり、痩馬に重荷を背負わせるような無理な道ではなく、学問もなく徳もないありふれた人間であっても、純真な信仰さえあれば、人生の幸福を得られる道を開かれました。その道には、僧も俗もなく、男も女もありません。皆が平等に救われる道です。
職業宗教家がいなければ、大聖人さまの救いの道は現代に伝わりませんでしたし、後世に伝えて行くことができません。ですから、少々できが悪くとも、祖道を世に伝え、世人の利益と幸福のために役に立とうとする気持ちを持っていさえすれば、決して食法餓鬼にはなりません。霊断師は心すべし。聖徒の皆さんは、新の霊断師を扶助激励してください。