御みやづかいを法華経とをぼしめせ。「一切世間の地(治)生産業は皆実相と相違背せず」とは此なり。かへすがへす御文の心こそをもひやられ候へ。
『檀越某御返事』
弘安元年(1278) 聖祖57歳作 全:p991~912 定:2巻p1493
みやづかい
「御みやづかい」は、主君に奉公することを指す言葉ですが、その意味を広く解すれば、自分の受け持っている仕事をすることの全てが「御みやづかい」です。
誰でも、何らかの仕事が与えられています。その仕事は、法律や道徳の禁ずる、不正・有害なものでない限り、必ず社会にとって必要な業務の一部分を担当しているのです。私たちひとりひとりが社会に必要な仕事を受け持つことに依って、他の多くの人が受け持っている仕事の恩恵を受けて生きて行く、というのが、私たちの生活の仕組みです。
自分の身の回りを観ると、衣食住に必要なもののほぼ全ては、自分の手で作ったものではありません。ほとんど全部、誰かが作ってくれたものです。もし、こうした夥しい必需品を自分ひとりの手で作らねばならないとしたら、どうなることでしょうか。そのように考えてみるとき、自分に必要なものが、他者によって懇切丁寧に作られているほど、ありがたいことはないでしょう。人間は、お互いに、社会の役に立つために働きあっています。お金のために働いているというのは一面であり、道に仕えていると解するのが正しいのです。
聖徒団の信仰の肝心は、純真な心で寿量ご本仏に仕え奉り、仏願仏業を相続させていただくことをありがたく思うところにあります。社会のため、家庭のためにつくすことが、そのまま寿量ご本仏に仕え奉ることであり、仏願仏業を相続することなのです。仏願とは、世の中の人の苦しみを救うことであり、仏業とは、地上に楽土を築くことです。その仏陀の悲願は、お互い自らが救われたいと念願していることに対する救いの手であり、お互い自らが憧れている理想社会の実現です。その念願が叶えられ、憧れを実現させる唯一の道は、お互い自らが理解のあるまごころの尽くし合いをする以外にはありません。その真心の現れる道が、寿量ご本仏に対する信仰です。
「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」というのは、天台大師の『摩訶止観』のお言葉で、「諸の所説の法、その義趣に随いて、皆実相と相違背せじ。もし俗間の経書、治世の語言、資生業等を説かんに、皆正法に順ぜん」という法華経の法師功徳品の一節を踏まえられたものです。少し難しいかもしれませんが、経文の心を、どうぞ、かえすがえす思いやり、味わってみてください。